まちゃたまストーリー

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自分にうんざりする。むなしい人生はいやだ!

ある時、自分の人生が見えてしまったのです。

べつに、いつ死ぬだとか、将来の姿が見えたのではありません。

自分のパターンに気がついたのです。

好きになるとに夢中になってしまう。

誰でもそうですが、それが人一倍なのです。

子供の頃からそうでした。

食べることもめんどうになるほど。

それでいて、ふとした瞬間つまらなくなる。

自分でもよくわからない。

夢から覚めた、そんな感じではないでしょうか。

いままでの勢いはどこへ行ってしまったのか、理由もよくわからない。

とにかくつまらなくなってしまうのです。

そして、また夢中になれるものを探している自分がいる。

自分がよくわからない・・・。

自分の人生が終わってしまうとき、きっとつぶやくこの言葉。「むなしい人生だった。」(ため息ふーうっ)

おじゃましまーす

Image by edirain from Pixabay

そこには、霊的世界の扉を叩いている自分がいました。

本屋さんに行っては、精神世界、宗教、超能力、霊能力などの本を買って来ては、読みふけっていました。

ある日、また本屋さんに立ち寄った時、一冊の本が目につきました。

それは、水波一郎著「大霊力」でした。

開いてみると、ノストラダムスがいる。ケーシー、ボルグも。

釈迦もイエスも卑弥呼までいる。

みんないる。仙道、古神道も出てくる、超能力、霊能力・・・。

なんだこれは??

さっそく、その本を買い、ワクワクしながら家路を急ぎました
           
これはいける!

いろんな本を読んできましたが、多くの霊能者は言っている事が極端だった。

神が語りかけてくるとか、自分は特別な人間であるとか・・・。

「この人、変だよー」そんな感じがしました。

また、道徳的なことを説く人もいました。

しかし、その頃の自分は、先祖を供養しろとか、愛が大切であるとか、そんなことは全く耳に入らない。

とにかく本当のことが知りたい!!それだけだったと思います。

その点、「大霊力」は違和感なく、読むことができました。

それは、自分のわからない世界、知らないことではあるけれども、なんとなく納得できたからではないでしょうか。

Image by saralcassidy from Pixabay

まちゃたま過去世を調査する

ドキドキしながら、過去世を調査してもらいました。

そこに書いてあったのは、

「室町時代の後半山形に生まれ、学問はなかったが、小さい時から遠い国へのあこがれが強く、二十歳を過ぎた頃、今の神奈川県で外国へ行くチャンスを待ったが、うまく行かず、結婚して子供ができてしまったらしい。」

「家庭を持つことにより夢は破れてしまった。

そして、新たな目的を探した。

Image by Udo from Pixabay

そして外国人と交流するようになり、いろいろな文化を学び、国際的な性格もったということである。」

「そして、このままでは日本は外国に占領されてしまう、とにかく日本は強くならなければならない。と思い多くの人に言ってまわったが誰にも相手にされず、平民の無力さを思い知った。」

「そこで、結局はお金がないと何もできない。必死に金儲けをしたが、資産家にもなれず死んでしまったらしい。(短めにまとめてあります)」

この過去世は夢を追いかけては、果たせずの繰り返しで、強い思いがひとつも実現しなかったという、むなしさと厳しさを実感した人生であったようです。

自分でもわからない、自分を動かすもの

何かに夢中になる。

そして、夢が覚めてしまったような感覚。

その原因が、過去世にあったのです。


ということは、それに対しての対策がないと、同じことの繰り返しの人生、それが運命というものではないでしょうか。

ですから、過去世というからには、何回もの人生を経験しているので、今もっとも、影響をあたえるであろう過去の心情を知り、その対策を考えること。

それが自分を変えることにつながると思います。

果たして、コントロールできるのか

Image by Olya Adamovich from Pixabay

多くの人は、心の奥の心情を何がなんだかわからないうちに、見過ごしてしまっていたり、わかっていても「自分はこれでいい、個性なんだ」そう思っている人もいるかもしれません。

しかし、それが原因で、人間関係を悪くしてしまうことも考えられるし、人によっては、人生を途中で終わらせてしまう最悪の結果にもなりかねません。

そうなってしまってからでは、遅いのです。

しかし、心の奥の心情がわかったとしても、それをコントロールできるのでしょうか。

まちゃたま、心の奥と闘う

いろいろな人がいて、いろいろな人生を送っているのだから、こころの奥の心情(衝動)の現れ方、強さなど違うと思いますので一概には言えませんが、ある試みをしたのです。

それは、「第三者なりすまし作戦」と名づけたものです。

強い心情が浮き出たときに「これは自分ではない、仮の自分である」そう思い込ませるのです。

そうするこによって・・・。

ダメでした。

ただ、ほとぼりの冷めるのを待つ。

なぜ、こんなことを思いついたのか。

それは、他人のことは客観的に見ることが出来ます。

当たり前のことですが、自分以外の人のことは、「こうすればいいのに」とか「ちょっと目先を変えれば」などと思ったりします。

また、自分がこんなにも落ち込んでしまい、もう目の前、真っ暗、思いつめていつ死のうか、そんなことを考えてばかりいる自分より、もっと深刻な問題を抱えているのに大声で笑っている人がいる。

あの人のような生き方ができればいいのに・・・

そんなことを心の中でつぶやいてしまいます。

自分とうまくやって行くしかない

結局のところ、自分は他人のようにはなれない。

自分の思いは相手に伝わらない。だから他人のアドバイスなど耳に入らない。

それでいて寂しい。

醜い自分。

わがままな自分。

自分のことだけしか考えられない心の狭い自分。

すべてが自分であって、そこからは逃げられない。

あきらめるしかないのか?

自分を見つめれば見つめるほど、いやな自分が見えてきます。

自分と闘えばいいのか?

心の奥の心情は、強すぎていつも負けてしまう。

それとも、自分をあまやかすことがいいのか?

心の向くまま、気の向くままに・・・

しかし、そんな生き方に、なんの価値があるのでしょうか。

いいもの見つけた!

古代より伝わる、禊法(みそぎほう)という霊的修行法があったのです。

それは、多くの人から白い目で見られる分野に存在した。人間の根本といえるものを変化させる技法であったのです。
「もう、これしかない!」

まちゃたま、新たな道に入る

Image by Gerd Altmann from Pixabay

みなさんには、申し訳ありませんが

人間というものは、自分ひとりで、コツコツと努力しなければならない。

そのように考えている方もいるでしょう。

それはそれで、もっともな考えであると思います。

しかし、心の奥からの心情、自分でわからない自分を動かすもの(これからは、霊的カルマと呼ばせていただきます)、こればかりは、もう自分の力では、どうにもならないと判断しました。

訳のわからないものに一生振り回されるのは、ゴメンです。

みなさんには申し訳ありませんが、僕は、霊的修行法という楽な道を選びました。

まちゃたまの行っている修行法はこんなの

修行法というと、どのようなイメージをもっていますか。

滝にうたれたり、長時間の瞑想。

はたまた、忘我、放心状態であばれたり、変なことを口走ったり・・・。   

世の中には、たくさんの修行法と呼ばれるものがあります。

そのなかでも霊的修行法、霊的というからには、表面的な心ではなく、自分自身の霊的な深い部分に何らかの変化や、向上をともなわなければ意味がないのではないかと思います。

それが、人間の表面的なもの、たとえば単に、気持ちがよかった、リラックスできたとか、運動不足が解消されたとか、そのようのものであれば、霊的修行法としての価値はありません。

また、修行というと、一人になってどこかにこもったり、ある特定の集団の中で、生活するようなイメージがありますが、心の奥からわき起こる心情というものは過去世、いわば地上の生活の中でつくったものです。

ということは、やはり多くの人々との生活の中で、解消していかなければならないものですし、それが最も近道ではないでしょうか。

そんな修行法できないよ

現代人はとにかく忙しい。一生懸命働かないと生活できない。

それは、男だけではない。

主婦も掃除、洗濯、食事の仕度。それに子供のこと・・・

子供は子供で、学校から帰ってくれば、塾や習い事。

「なんでみんなそんなに忙しいの?」と聞きたくなるけど、自分もなぜか忙しい。

税金や家のローンも払わなければならないし、通帳とにらめっこすることが多い。

そんな社会の中で、何時間も瞑想できないし、山にこもろうとしても、道が整備されたため車がどこまでも入ってくる。

ひとり瞑想しているつもりが、そばをたくさんの人が通る。

ついでに、ゴミを投げつける。

昔のような修行法なんてできないよ。

Image by Sam Williams from Pixabay

霊的修行法は改良されました

霊的修行法は、特定の人だけのものでなく、やはり、誰でも行いうるようでないと意味がありません。

それは、すべての人に過去世があり、カルマをもっていて完全ではないからです。

毎日できます

たとえば滝行などに見られるように、実際に滝のところへ行かないとできないわけですが、自分の行っている修行法は、自宅でもできます。

それは、水を媒体として、霊的な力を受ける。

ということは、自宅の浴室に高い霊的空間をつくることによって、可能になるのです。

昼でも夜でも、自分の都合のいい時に行うことができます。(初伝の水の禊は、風に変更されました。2023年現在)

霊魂の協力で成り立ってます

霊的修行法は、すべて霊魂が協力していることが前提です。それには、作法というものがあります。

霊魂は、肉体を持っていないので、人間の肉体は見えません。

しかし、人間は肉体とは別に、霊的身体をもっています。

霊魂からは、その霊的身体、または、霊的身体から発するオーラと呼ばれるものが見えるらしいのです。

肉体を動かすと、ダブった霊的身体の動きや、オーラの動きが視覚できるようです。

守護霊って?

守護霊というと、守ってくれる、危険な時に助けてくれる。

そのように考えている方もいると思います。

たしかに、いちばん頼りになるそして身近な存在の霊魂が守護霊です。

しかし、物質的なご利益とは、無関係です。

いい学校に合格したい、大きな会社に就職し、安定した収入が欲しい。

それが、霊的な意味での向上につながるのであれば、協力してくれるかもしれません。

しかし、本来は霊的な意味での向上や霊的なカルマの解消の手助け、そのための存在です。

霊魂が協力してくれるけど

たしかに、霊的修行法は霊魂が協力してくれますが、修行法を行っている時に、霊魂のパワーが降りてきて、カルマがすーっと抜けてしまった。

そんな、虫のいい話があるわけがありません。

やはり自分自身の努力がいちばん大切ではないかと思っています。

また、その努力に応じて霊魂が協力してくれるのではないでしょうか。

霊魂といっしょ

幽霊など見たこともない

僕は、幽霊を見たとか、おぞましい心霊体験は全くありません。

あまり体験したいと思いませんが・・・。

だからといって、幽霊を見たという人を否定していません。

確かに見やすい人がいることは、事実です。

でも、それは幽霊を見やすいだけのことであって、霊的な向上を考えている人には、あまり関係のないことです。

でも、「見たくなくても、見えちゃうんだよー」という人には、対策が必要です。

こんな感じで始まりました

僕の場合は、ある小さな清流会(契山館の前身)に入会し、月に一、二度集会に参加していました。

その集会というのは、「霊魂に聞いてみた!」のような感じで、霊感講話(霊言)によるものです。
※霊感講話(霊言)の説明は、「霊魂に聞いてみた!」の始めにあります。

そこでなぜか、日々思っている疑問や考えていることの回答が返ってくるのです。

質問するわけでもないのにです。

毎回、スッキリして帰ってくることができました。

入会したばっかりというのは、霊的なことについて何も知らないし、書店で買ってきた本の内容の中で、なんとなく同感できることが、自分なりの霊的知識だったのです。

それが、ひとつひとつ崩されていきました。

たとえば、ある本の中で、毎日、寝る前に守護霊にお願いすれば、「いつか話しかけてくれる」といった内容をバカで単純だから、そのまま信じて、毎日行っていたのです。

ある日の集会で、守護霊が声として話しかけるというのは、憑依しなければ出来ないといった内容です。

何だか、とてもはずかしくなってしまいました。

こんな感じで、霊魂との交流が始まったのです。

また、こんなことも

集会の前の夜、いわゆる心の奥の心情が浮いてきて「満足したい・・・」と心の中でつぶやいたのです。

それが次の集会の日

「好きな人と、嫌いな人を分けすぎる」という話しになって、「こりゃ、僕のことだ!」とわかり、冷や汗たらたら。

いろいろ霊魂に、お説教されて、最後に「きのう思ったことは、必ず叶えてやる。」なんて言われて、うれしかったのを覚えています。

たとえ、言葉に出さなくても霊魂には伝わっているようです。

またまた、こんなことも

Image by Simon Berger from Pixabay

入会して3年目頃の集会で「冬休みを利用して海外に出かけた方もいらっしゃると思いますが・・・」という出だしで、「エジプトに行った・・・」

「あれっ、僕のことだ!」またまた、冷や汗たらたら。

そのうえ、「フィリピン上空は・・・」といった内容で、飛行経路までわかっている。

それにです。

ピラミッドといえば古代、霊的なアンテナとして使われていたわけなので、ここで自分が霊的な高い気を降ろしてやろうと、あることをしたのです。

霊魂に「高い気を降ろそうとしたが、指導霊は誰も手を貸さなかったそうであります。」なんて言われて、あせるやら、はずかしいやらで。

とにかく霊魂はいつも自分を見ていてくれる。誰よりも・・・。 

霊的修行法の合宿を終えて

はじめて鎮魂法(ちんこんほう)という行法の合宿を終え、自宅で鎮魂法を行ったときのことです。

行法を始めてからすぐに、何かいる!

そのような感覚があったのです。

頭の上、部屋の天井というように、とても近いところで何やら動いている。

そんな感じで、怖いという思いは全くありませんでした。

これは、見えるとか聞こえるというようなものでなく、肉体の感覚ではないものが、感じていたのではないでしょうか。

このような現象が、それから鎮魂法を行うたびに起こったのです。

これは、自分にとって、物質ではない何かをはじめて感覚的に実感したのでした。

だからといって、すべての人が鎮魂法を行うと、こういったことが起こるということではありません。

修行法の過程でこのような現象が必ず起こるとか、必ず青い光が見えてくるとか言う人もいますが、それ自体が修行法の成果ではないからです。

やはり、求めなければ何もはじまらない

もしも自分が多くの人のように、はじめから「霊魂など存在しない」と決めつけ、普通に過ごしてしまっていたのなら、きっと何も知らずにいたことでしょう。

そして、わかったような顔をして、神や霊魂などと口走る人たちに対し、批判していたに違いありません。

たしかに神という存在は、身近ではありません。

昔から、ほとんどの修行者は、神という存在を真剣に、また命がけで求めたにもかかわらず、それを得られず、この世を去っていったのです。

だから突然、神が語りかけてくることもないし、高級な霊魂もそうです。

しかし、見えなくても聞こえなくても、霊魂というものを自分の中で感じ取ることは可能です。

それには、やはり求めないことには、何も始まらないのではないでしょうか。

Image by brisch27 from Pixabay

まちゃたまは、こうなった

宗教的な本を開けば

霊的、宗教的なことに興味をもってからは、とにかく自分を変えたい。理想の自分に近づきたい。

だから、自分と闘っていたのではないでしょうか。

宗教的な本を読めば、心を変えることを勧めるものばかりだから、それが正しいと思っていました。

自分でも心を変えるというは大切なことであって、それが人間の修行、魂というものを進化させることにつながると確信していました。

「怒りは悪い感情だ」「我慢することは良いことである」と、いつも自分に言い聞かせていたのです。

少し怒りんぼ

どちらかというと、せっかちで、短気でしたから怒っている自分を押さえる、我慢する。

そんな日々が続きました。

男だから涙は流しませんが、ひとりになって、毎日のように泣いていたのです。

霊的修行法に出会ってからも、やはり心を変えようと努力していました。

とにかく怒りたくなった黙る。

それでも我慢できない時はその場を去る。

それが自分の対処法でした。

自分に厳しくするということは 

自分を見つめ自分に対し厳しくするということは、理想の姿が自分にとっての正しさであるのだから、どうしてもまわりの人に対して自分の基準を押し付けてしまうことになります。

でも、いくら自分の理想像が立派であろうと、まわりの人には全く関係ないことなのです。

心を変えようとしても

我慢する。イライラする。人と関わることがイヤになる。

自分とまわりの人達の違いばかり気になってしまう。

これが心を変えるということなのか?

我慢しているばっかりで、自分何もにも変わっていない。

ただ、ストレスをためるだけじゃないか!

ノイローゼ

理想の自分は、正反対。

人前で演技をしているから、めったに気づかれない。

それで時々、小爆発する。

自分は感情を押さえているだけで、何も変わらない。

ついでに霊的なことはわからにことばかり。


イライラ、モヤモヤ。

いつ、おかしくなっても不思議はない。もう限界ギリギリ、爆発寸前。

「もう、ノイローゼになっちゃうよー」修行法を始めて、2、3年くらいはこのような状態が続きました。

それが、いつのまにか

それでも、いつのまにか小爆発がなくなりました。

いつからと言われるとよくわかりませんが、いつのまにか自分をコントロールできるようになっていたのです。

せっかちで短気なのは、重大な欠点ではないのかも知れません。

そのような人もたくさんいます。

しかし、生きるということは多くの人と接することだし、いろんな人がいるのだから、どうせならイライラしないほうが生きやすいし、怒った感情を相手にぶつけなければ人間関係に亀裂が入ることも少なくなるのではないでしょうか。

こんな人間にはなりたくない

確かに怒りという感情は、相手を傷つけたり不快にさせてしまったりすることが多いと思います。

それよりは、いつもニコニコしていた方が好印象です。

だからといって、深刻な相談を受けている時に笑っていれば、「この人は真面目に聞いていない」と思われるし、子供を叱りつける時には、怒っていた方が伝わりやすいこともあります。

人間というものは感情があってこそより人間的であるし、それをむりやり押し殺して、悟ったような顔をしている。

そんな人間にはなりたくありません。

だから、怒りの感情は大切な時にとっておこうと思います。

今、思うこと 

最初は、自分と闘ってばかりいたと思います。

いつの間にか自分をコントロールできるようになった。

そして、いまはめったな事で怒らなくなりました。

イライラすることも少なくなったし、決して我慢しているのではないのです。

不思議なくらいです。

それは以前の自分とは違い、自分が変わったのではないでしょうか。

心ばかりにこだわっていても、本当の自分を変えることは出来ないと思います。

不安定でコロコロ変わってしまうのが心ではないでしょうか。

暑い、寒い、腹が減った、痛い、かゆい。

それだけでも、心は変化しています。

それは、心というものが、人間のほんの表面的な部分でしかないからです。

心よりもっと深い意識、それを変えなければ自分はかわらない。

それを可能にするのが、霊的修行法、霊的トレーニングなのです。

複雑だけどおもしろい

僕のカルマについては、『むなしい人生はいやだ!』で話しましたが、これが、今の自分にとってのポイントであると思います。

どうしてもカルマという用語は悪い印象を受けると思いますが、良いカルマもあるのです。

それは魂という長い歴史のなかで、霊的に良い人生を送った時もあるからです。

これは誰にでもあると思います。

それが、最近顔を出すのです。

そのカルマは自分でもいつのものであるか調査していないのでわかりませんが、まったく逆のものです。

やる気が出てくるのです。

へこたれません。根気強いです。

このカルマをどんどん生かして行けば、自分の人生で足を引っ張るカルマに勝てると思っています。

しかし、それは、今まで、なかなか表面には浮いてこなかったものです。

霊的修行法を行っていなかったら、お目にかかれなかったかもしれません。

人間というものは、複雑です。

わかりやすく書いているつもりですが、理解しにくいと思います。

それは霊的修行法というものは、こういうものであると、簡単に説明できるものではないからです。

やはり経験しないとわからない部分が多いのです。

自分の経験を通して、みなさんに少しでもいいから、何か伝わる事を願っています。

僕は霊的修行法、霊的トレーニングを通して、いろんなことを知ることができました。

自分にもかなりプラスになったし、出会えてよかったと思っています。

まだよくわからないことがたくさんあります。

やはり、一生が修行なのでしょう。

そして、霊的な存在となっても・・・

Image by NoName_13 from Pixabay
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