霊魂からみる人の命の重さ
人は必ず死にます。
人間は命というものを尊ぶけれども、死に際が大切ということではないよね。
そうなると生きる価値を考えないといけないけど、これがまた個々にいろんなことを言うから、漠然としたものになってしまう。
もし、肉体の消滅が終局でないとするなら、死後のことを含めて考えることになるけど、死ぬまでの間に果たしてやるべきことは一体何なのでしょう?
人の命の値打ちとは?
おのれ自身の将来といえる、死後の世界においてのおのれ自身の考えは、地上に生きている時とはまるで異なり、常に人の命自体が石ころのごとしである。
投げれば遠くへ飛び、蹴っても飛ぶ。
ダイヤのごとしの輝きは何一つなし。
ただの石…
いま地上で生活していると、生き長らえることだけに執着しているだけだから客観視することは難しいけど、実際に死後の世界に入ってしまうと、全く異なった考えになるということだね。
仮に、人が死後別の世界に行けば、上がいわゆる神、仏のごとし。
下がいわゆる地獄のごとし。
もともと地上の図に表せはしないけれども、便宜上わかりやすく表現するとして、ちょうど中間的、標準的世界を位置付けした場合、人は大体それよりも下の世界に最近は入りやすくなってきている。
「それは大変だ!」などと思っても、こういったことを真面目に考える人など少ないから、それが下の世界に向かわせるのかな~?
この場合、人の命は大変重い。
こうした暗いおぞましい世界に住むなら、その魂はみな「人のこの世の命は、こんなに重いのか?」と感じる。
が、幸い上のあたりでそこそこ満足しうる世界に入ったならば、地上の命は石ころのごとし。
つまり、あの世での生活する環境において、住んでる人というか、霊魂の考えがそれぞれ異なるということだ。
人々は常におのれの目で相手を見る。
日本人は日本人の目で外国人を見る。
外国人もしかり。
そのため、相手の考えがわからない。
仮に、日本がまだ、ちょんまげをしている時代であった時、今の現代の日本人がさて、江戸の町にやって来たらどうなるか?
その考えはぜんぜん違っている。気狂いのごとしに弾かれてしまう。
「なぜか?」
そのまわりの環境の異なりが考え方を変える。
考え方が異なれば、おのれの常識で相手を排斥する。
ちょんまげが一番カッコイイのに、茶パツで寝ぐせみたいなボサボサじゃぁ、笑われちゃうよね。
過去の歴史を振り返ると「昔の人は何をバカなことをしていたのか?」と笑い飛ばすけど、それは現代の人達の感覚や価値感というものがあって、そこにあるより多い考えが常識というものになっているだけでしょう。
人それぞれ微妙に考えは違うとしても、それでも似たような部分もあるから、何とかやって行けるんだよ。
つまり死後の世界においても同じ。
人がそのまま肉体の身を脱ぎ捨てあの世に行く。
行った先がたまたま、おぞましく恐ろしい世界であったら、その苦しみは今の苦しみとはまるで違う。
どんなふうに違うのかな~?
今なら、最後は自殺するかもしれない。
しかし死後の世界においては自殺できる体がない。
幽体という霊的な身体は物質でないので、ナイフで切ろうと死にはしない。
誰かにいじめられるとしたら、際限なくいじめられる。
まったく心が休まらない。
仏教などでは「地獄」というような所を、身体的な苦痛を味わうような世界として表現しているけど、それは人間にとって「辛いところだよ!」と教えるには理解しやすいのかもしれないね。
霊的世界の現実
死後の世界という幽界においては、肉体がないわけだから、実際はどのような苦しみ?
何しろ物質の身体にあらず。
寝る必要もなければ、食事もいらない。
誰かが仮にいじめるとしたら、24時間一時の余裕もなく、ただひたすら相手がやめなければ、それこそ百年でも二百年でも、どこまで行ってもいじめられる。
逃げ場は何処にもない。
そうした世界に来た時、人はしみじみ思う。
「人の命は大切だった・・・」
「こんな世界に来るなんて、もっと生きていれば良かった」
「なんで自殺なんかしてしまったのか?」
しみじみ悔しく思う。
が、もうどうにもならない。
一度死んでそうした世界に入ったら最後、もう永遠に光はない。
誰も助けてはくれない。
肉体を持って生活していると霊魂は見えないけど、人は死後、霊的世界に入り霊魂となるのだから、守護霊に頼んで助けてもらえないの?
その人にふさわしい世界に住むのである以上、ふさわしくない存在は近くにいない。
まわり中、同レベル。
どこにも天使もいなければ、神も仏もいない。救いはこない。
八方ふさがりってこと?
そこから抜け得るとすれば、どこかでおのれが自分自身を叱咤し、何とかはい上がる努力をするしかない。
無論、地上の一年はあの世では百年の努力がいる。
なぜなら、己と異なる性質を持つ、ランク違いの魂には会えないのだから、まわり中同レベルでしかないもの、どこにも助言ひとつしてくれる者はいない。
百年経っても同じ所にいる。
その苦しみに比べたら、地上の何と素晴らしいことよ。
きっと自分の力だけで真実を探るようなもので、何だか気の遠くなるような話しだね。
その点、地上においては間違いも多いけど、霊的なことをいろいろ教えてくれる人もいるし、守護、指導霊という存在も力をかけてくれるから楽なんだね。
一方、何とか満足し得るレベルに入った人は幸いである。
なぜなら
「寝なくて良い、食べなくも良い」
「仕事もしなくても良い」
「上司に頭も下げなくてもいいし、生殖もないので子育てもいらない」
人は魂と魂で自由に付き合っている。
愛情もあれば満足もある。
つまりその環境に応じた身体が、その環境に応じた意識をつくるのだから、満足すれば十分満足できる。
不満なら不満もできる。
何ら問題はない。
そして過去を振り返り、
「なぜあんなくだらない世界にいたのか?」
「毎日勉強して、仕事して、洗濯ばっかりして何の意味もない」
そこに喜びもない。
「欲しくもないのに子供が出来てしまって、遊びにも行けなかった」
「いや、この家に嫁に来たら、ずっと自分は不幸だった」
「景気が悪いので一方的にリストラされてしまった」
「こんな仕事、一刻も早く辞めたいが生活のために辞めるわけにもいかず、家のローンを払わねばならず、ずっとずっとただ我慢していた」
愚かしい。
「何のために生きていたのか?」
「とっとと死んでこっちに来れば良かったのに…」
「十代の時に自殺すれば良かった」
みんな真面目にそう思う。
生きるためには、苦労や我慢が多いからね。
かといって簡単に死んで良いか迷うし、残された家族のことも気になるだろうし…
つまり親より先に死ねば親が悲しむ。
そう思うから「死ぬなよ!」と言うだけで、天涯孤独だというなら、実は早くこっちへくれば良いのに。
別に「小学校から中学校に行くだけで、どうということない」ということになってしまう。
つまり特別霊的なトレーニングをしたという人ではなく、一般的な人で、多少運良く上の世界に上がれた霊魂たちは、みな人の命を何とも思っていない。
それが実感で、今生きている大勢の人達の中で、幸いにも上にあがった人は、死後十年も経てば確実にそうなっている。
そうした霊魂は、誰も「命を大切に」とは思っていない。
人は霊魂であることを前提に考えねばならない
人間は現実しか見えないし、「死」というものが理解できないから、恐れるし不安なんだろうけど、上の世界に入れば、今までのことがフッ飛んでしまうほど過ごしやすいのか…
さてそこにギャップがある。
つまり地上の人々は神であれ仏であれ、霊魂であれ高級霊魂であれ、すべて己の希望で相手をイメージしている。
高級な霊魂、あるいは神、仏、天使は「必ず人を救って下さるものだ」
さて「自分が死にそうだ!」
「必ずかわいそうにと思って助けて下さる」
と思い込んでいる。
人間にとっての命は大切にしようとして当然だし、死にそうであれば「助けて欲しい」「命を救って欲しい」と考えるよ。
それじゃぁ、霊魂は人間にとって、みんな冷酷と映ってしまうけど。
実際その苦しみ、悲しみ、その重さを感じ得る霊魂は「何とか助けてあげたい」そう感じる。
そういえば高級霊と呼ばれている霊魂は、ただ人間の言いなりにはならないと思うけど、心から幸福を願い守護霊となったり、霊的な進歩向上に力をかけてくれるよね。
が、先輩達はそうではない。
「自分もちょっと前まで同じだったよ」
「でも、こちらへ来てごらん」
「バカバカしくて何を思い悩んでいたのか?」
「とっとみんな死ねば本当に楽だった」
「原子爆弾でも何でも落ちて、全員死んだら本当に楽園になるよ」と、本気でそう思う。
それが人間達の先輩であり、今生きている人が仮に他界し、普通の人が上にあがったとして十年後にそう思う。
ということは、まだまだ霊的なことに対しても理解が浅いし、自分のことだけを考えれば、そのような結論になるのだろうね。
もしかしたら下の世界のことなど、知っているのかな~?
つまりは、小学生にとって中学生は大人に見える。
幼稚園児にとって、小学生は大きい大きいお兄さんに見える。
が、おのれが小学生になってみると、どうということはない。
なぜ幼稚園の時に「あんなに小さい事にこだわっていたのか?」さっぱりわからない。
まさにそのごとし。
霊的なことを含めて考えないと、今生きている間の努力や苦労も水の泡になる可能性もあるし、「ただ生まれて死んだだけ」となって、辛い世界に落ちたら最悪だよ。
つまり「人はなぜ人がこの世に生きるのか?」
そういったテーマ、霊的な問題、それを知って初めてこの世を生きる意味が出る。
それがないなら、実は「全員死んでくれた方よっぽど良い」それが本当に救いだと考えている。
だから、仮に某神社に火事があったとする。
人は「あんなことをする霊魂は悪霊に違いない!」と言う。
が、そうではない。
彼らはまさに「霊的にならないのなら、生きている値打ちはないよ!」とあっさりそう思っている。
まったく悪霊でもなんでもない。
本来神社の価値は、そこに高い霊的な力が降りてきて、それを地上の人々が受け、霊的に進歩向上するための場所だよね。
本来の意味を失ってしまったんだ…
一方悪霊は、神社を死守する。
なぜなら、人々は単にご利益を求めたり、遊ぶだけで来るが、何ら真面目な信仰心などない。
困った時にだけ、いい加減な願いを五円玉ひとつで叶えてくれとやって来る。
その念の質量たるや邪霊、悪霊と呼ばれる類には大変ありがたい。
これを利用しない手はない。
どこにいるよりも沢山、人の念がある。
真面目な信仰心などなく、目先のご利益やくだらない願いをかける。
そうした霊的な想念というものが沢山あって、低い霊魂の思うツボってわけだ。
真面目な信仰心などないから、霊的には、ほとんどがレベルが低く、邪悪な霊魂に利用しやすい念ばかり。
そして邪霊は言う。
「この地を排除してどうするのですか?」
「人々の人権を守らねばなりません。人々の命と人権を守るために神社を死守します」
これがいわば低い低い世界から、たまたま地上にやって来れたラッキーな霊魂たち。
その本音。
つまり地上の人達の勝手な考えは常に霊魂の世界を己の基準でみる。
「自分にとってふさわしいこと、自分にとってこうあって欲しい」そうした存在を描いて「神だ、仏だ」と言っている。
が、現実はずいぶんと違う。
だからこそ「願いを叶えてくれた」そう思っていたら、その霊魂が邪悪だったりする。
「まったく無視した」その霊魂が高級だったりもする。
高級な霊魂と未熟な霊魂の考え方の違い
単純に目先のことだけにとらわれてしまうのが人間というものだね。
誰でも自分では良いと思い行動しているはずなのに、結果的には不運を嘆く人が多いのだから、単純に思い通りになることが、必ずしも良いこととは言えないものだし、霊的な向上につながらないのであれば、高級霊が無視しても当然かもね。
簡単に言えば、邪霊にとって人間は遊び道具のようなものだから、消えてしまうのは困るということだよね。
霊的なことを含めた大きな視点から見ると、人類がただ生き長らえることにより、その不幸、苦しみはより深くなるのがわかっているから「消えちゃった方が良い」と考えるのが上の世界へ入った霊魂ということだ。
ここに下の世界と上の世界の霊魂との意識のギャップがあるけど、人間は何も知らないから、どちらかといえば邪霊に引き込まれやすかったり、となってしまう。
大切なのは
「人はなぜ生きるのか?」
「霊的に生きるとは何なのか?」
それを知ること。
それを知らなければ、この世は一刻も早く消えた方がいいし、全員殺した方がいいに決まっている。
先輩達は皆そう考えている。
誰も心配していない。
心配している人達を見ながら、
「今だけ!そんなことを思っているのは」
「こっちへ来てごらん。すぐに考えが変わるから」
「そんないつもいつも病気ばっかりして、五年長く生きて何になるの?」
「痛い痛いと言いながら、何で生きているの?」
「バカじゃないの??」
これが標準的な発想で、普通の人の上にあがった人達の本音。
下の世界に落ちて多くの霊魂が苦しんでいる。
その痛みを考えてどうしよう?
あるいは、どの道、人類はなかなか自滅しないだろう、いっそのこと原子爆弾で自滅してくれれば良いが、自分達の自己保存の為に爆弾はなるべく使用しないようにとするに違いない。
彼らは、そうした自己保存欲のかたまりだ!
よって爆弾は使わない。
だからこそ、生き延びてしまう。
とすれば、人類の悩み、苦しみ、不幸は永遠に続き、その競争社会において相手の幽体を極端に痛めつける。
死後はどんどん下の世界に入り、どんどん更なる苦しみが生まれる。
人が霊的に目覚めることがないと何も変わることもなく、さらなる不幸につながるけど、だからといって一度に消滅してしまうと、いろいろ問題も多いと思うけど…
これをそのまま放っておくべきか否か?
何とか変えたいと意識をかけてくるのは、ずっと上の方の霊魂。
つまり、高級な霊魂の弟子として地上に降りてくる魂は、そうした意識を持っているが、ちょっと前まで人間であったような魂では、ちっともそんなこと全く考えていない。
霊魂でも、ちょっと先輩の霊魂と、いわゆる高級霊とされる霊魂でも、考えが異なるわけだ。
良い霊ほど、人の命を軽く取る。
悪い霊ほど、けっして軽く取らない。
とことん苦しめる。
とことん遊び尽くす。
とことん意地悪をする。
そしてどうせ死ぬから、そしたら、下の世界へ引っ張って行く。
それだけ霊的な交流が長ければ、高級な霊魂が入り込む余地はなく、確実に下に引っ張れる。
それが「人権」や「平和」そうしたことを尊ぶ人達の背後で暗躍する邪霊である。
人が仲良く暮らすことや、他人をいたわる気持ちは大切だけど、邪霊はある意味では賢かったりするし、人間というものを知り尽くしているから、人間が好むようなもっともらしいことを言って、そそのかしたりするんだ。
霊的世界の法則知ること
人間から見ると、霊的世界や霊魂達の考えは納得いかないけど。
人々は己を中心にものを見るが、法則はそのように出来ていない。
法則は人がどう見ようと、最初から同じ。
原始時代でも、今の時代でも法則はひとつも変わっていない。
人が飛行機を飛ばし、飛べるようになったのは、原始人から見れば、とんでもないこと。
法則をまるで変えたがごとし。
が、何も変わっていない。
人は法則の利用の仕方を知っただけ。
昔から、ひとつも変わっていない。
物的法則も霊的法則も何も変わっていない。
変わったのは人々の考え方だけである。
時代や環境により人々の考え方は異なるけど、普遍の霊的法則を知ることが、何より大切なんだね。
ところでこの霊的法則って、わかりやすく言うとどんな感じかな?
人の身体が通常、老年期になると、いずれは次の世界に行かざるを得なくなるのだから、自然に準備をはじめる。
そこで使う身体は当然、いずれそれが己の表面の身体になる。
それが幽の身体、幽体と呼んでいる。
この幽体が、仮にあの世に行ったとして、
「どんな世界へ行くのか?」
例えば、肉体がそのままあの世に行けば、その肉の身体、その肉の脳、肉の意識がそれからの世界での全ての基本となる。
当然、肉体を持ったがゆえに行ってきた行為、それらの責任はすべて肉の心にあるが、肉の脳がなくなってしまった。
さて、「その責任はどこに?」
やってしまったことは、もう戻らない。
よく地上においての善悪というものを基準にして、あの世の行き先が決まるように言われているでしょう。
となれば霊魂となっても、その罪を背負ってゆくことになるけど、人の考える善悪もコロコロ変わるけど?
仮に、生きている間に誰かを殺した。
とすれば、その罪はもうどう償うといっても、死んだ人が生き返えるでなし、仮に誰かの子供を殺してしまった。
さて、その親の悲しみが、どう償っても、刑務所に何年入ったからといって、それで悲しみが消えるわけもなし。
どうにもならない。
さて、人があの世に行った。
もう、肉の脳はない。
「この人の罪と功はどう判断すべきか?」
さて、「どんな裁判も何を判定して良いのやら…」
「もし肉体を持つことがなければ、この人が泥棒などしただろうか?」
「いや、しなかっただろう…」
「家族が食べられないので、やむを得ず私は殺しました」
「やむを得ず人の物を取りました」
「今は肉体がないので、もし最初から肉体などいらない世界だったら、私は決してそんなことはしませんでした」
「それはそうだ」
「食わねば生きて行けぬのだからな」
「では、生まれたのが悪かったということになる」
「そうです。私を生んだ親が悪いのです」
「さて、あなたはその親の所へ了解して生まれたのか?」
「いいえ」
「そんな人も世間にはいるらしいですが、それはよっぽど偉い人の話しで、われわれ庶民はそうではありません」
「気がついたら、生まれていたそうです」
「何しろ、私の知り合いなど、十五、六の男の子と女の子の間に出来てしまって、育てるも何も、生まれてすぐ殺されてしまって、捨てられてしまったそうですから、そんなもの約束などしている訳がありません」
「まぁ、それはそうだ」
「ですから、私は親が産んでしまったので、この世に来ました」
「そうでなければ、あんな貧乏な家に生まれることはなかったし、泥棒に育つこともありませんでした」
「何しろ、家は貧乏だったので、小さい時からとにかく食べることに必死でした」
「人の足を引っ張らないで生きるなんて、初めから出来ませんでした」
「気がついた時には、もう私は普通の世界にはいませんでした」
「世間からは常に、あいつは犯罪者の息子だと言われていましたから、どこも就職などありませんでしたし、結局は私も同じように刑務所に入っていました」
「が、罪は十二分に刑務所で償いました」
「私は下の世界になど落ちるいわれはありません」
「なるほど・・・」
「ではお前は一つも悪いことはしていないということになる」
「そう思います」
そうなった時、果たして「上に向いているか?下に向いているか?」
霊的不調を改善しないと
地上の裁判であれば、生い立ちを含め恩情判決ということもあるかもしれないね。
考えてみれば、生まれて来なけりゃ罪は犯さなかったかもしれないし、ちゃんと刑期を終えているのだから、どうなるの?
当然世の中とは違い、「霊魂学」ではそんなところは一つも見ていない。
「この幽体がどの世界にふさわしいか?」ただそれだけ…
ずいぶんあっさりして、場合によっては不公平というか不条理に感じるけど…
だから法則なんだ!
ふさわしい所に、本人の幽体の質と同じ世界に行くだけ。
そこに行くと、たまたま同じような質を持った人達が一杯いる。
厳密には霊であるが・・・
その人達が善人なら良かったけれども、悪い人ばっかりだったら意地悪される。
それだけのこと。
上にも下にも「誰と比べて上か?誰と比べて下か?」というだけの話。
ずっと上から見れば地獄のごとし。
ずっと下から見たら極楽のごとし。
一般的な人は常にこんなもの。
幽体といっても霊的な身体のことだから、よくわからないけど、人によってどのような違いが出てくるのかな~?
この幽体は、実は大きな問題を抱えている。
なぜなら、夫婦がいて「さて、お母さんが妊娠した」そして子供がお腹の中にいる。
この時「どんな子供がやって来るか?」もちろん形は肉の遺伝でしかない。
肉体的にはいろいろな遺伝が詰まっている。
が、この段階であの世から引っ張られてきた幽的、霊的な性質、この性質が問題になる。
つまり、肉体とは別の人間の霊的部分は、実際の親から引き継ぐということではなくて、あの世の霊魂の幽体の一部が再生して肉体に入ってくるんだよね。
それじゃぁ、すでに霊的な高低は決まっているのかな?
たしかに良い所もある。
悪いところもある。
そうした性質で、幽的世界にいた細胞の一つが地上で誕生するが、この段階ではただ引っ張られただけ。
そして通常それほど低くはない。
なぜなら結構レベルが高くなっても、人間には未熟な部分、高級な部分があり、当然、より未熟な部分も若干皆あるものである。
よって地上にもかなり上の方からでも、生まれる場合は生れる。
地上に生まれてくる人は、未熟な部分と良い部分を兼ね備え、霊的にそれほど低くはないのだから、そのまま死んで上の世界に行けないの?
が、問題は、この幽体がもともと霊的に高くも低くもない幽体だったとしても、不調は別である。
つまり肉体で言えば、身体は「大きい小さい」「太っている、やせている」「強い弱い」はあるけれども、どんな強い人でも、たまたま胃が悪い時、たまたまカゼをひいている時、いろいろある。
もともとの性質はとりあえず別としても、霊的な状態というのは、常に変化しうるしということだね。
では、お母さんがたまたま幽体に不調があり、特にお腹のあたりにあった。
それも当然あり得ることである。
この場合、中の赤ちゃんは不調をそのまま受けて育つ。
また、母体のお腹に大切な霊的な「幽気」と呼ばれるものが全然ない。
となれば、子供の「幽気」が当然不足する。
赤ん坊の肉体であれば、お母さんから物質的な栄養をもらう。
当然、幽的な力ももらうはずだが、その幽体が力を持っていない。
そして誕生する。
この赤ん坊が成長して、またお母さんになると、また同じことを繰り返すことになる。
つまり、地上に引っ張られた段階では、それほどレベルの低い幽体ではない。
もちろん母親にも同じことが言える。
なのに不調があった。
すると産まれた段階で、幽気がちっともない子が産まれてしまう。
そういった不調が、どのようなことにつながるの?
こうなると、幽体から発するオーラが出ない。
当然、高級霊の目に止まることもないし、悪い霊魂が山のように寄って来る。
その後の数十年、当然幽体の質は明らかに落ちて行く。
じやぁ、わざわざ霊的に下がるために生まれて来たようなものだよ。
つまり一代、二代、三代といくと、幽体のレベルと言うか、高い低いと言うか、そうしたものがどんどん落ちていく。
このままの状態で死ねば、みんなず~っと下の世界に一直線。
ということは、この不調がすべての原因。
この不調を治しておかなかったばっかりに、子々孫々に至るまで、大変困ったことになる。
ここに問題がある。
人はもともと魂として、そんなに低くなくっても、その幽体は魂ではないので、その幽体は魂の質を反映しているに過ぎず、身体そのものなので、こうしたことが起きてしまう。
もともと本質的には低いとはいえなくても、幽体という身体の不調や霊的状態が悪くなれば、必然的に低い霊魂に寄られ、霊的に良い影響もなく、下の世界に落ちて苦しんでしまうのか…
幽体を健全にすることが何より大切だ。
人間の欲求
たとえば、一緒にいる人の霊的影響ってあるのかな?
当然、お父さんの影響も考えられる。
なぜなら、夫婦であれば常に一緒なので、幽気がお互いに影響し合う。
仮に父親の幽気が強ければ、若干の不足は自然に補えたりする。
また、逆もしかり。
つまりは、人は生まれて死んだ時に、幽体の質が下がっていく。
それは、現代社会では常識である。
なぜなら、幽体の質が向上するようなことを、生まれてから死ぬまで一度もしないので、下がって当然。
どんどん下がる。
ということは人類は長い歴史において、長く生存すればするほど、死後入る世界が下がってゆくことになる。
つまり死後の世界では、邪霊とその一味が、どんどん増えていって、上はあまり増えない。こういうことになる。
そうすると「消えた方が良い」という説が出るのである。
早い話が、生まれてから死ぬまでに、一度も霊的に幽体が上の方に向上させていない。
何もしないのであるから、行くべき死後の世界をどんどん暗くする。
たまたま、頑張って上の方に、せっかく上がって来た霊魂の一部をもらって、地上にまた引きつける。
せっかく上の方にあがって来たのに、己の一部が地上に生まれ、結局また下がっている。
順番に下がっていく。
人間が生殖することにより、霊的に進歩した霊魂の一部が地上に引きつけられ再生し、現実問題として物質の世界は霊的に進歩向上するような環境ではなくなっているため、悪循環になってしまうのか…
そうであるなら霊的に生きなければならないけど、肉体を持つ人間が霊的に生きることは、とても難しいように思えるけど。
人間はどんな風に生きても、所詮サルの進化に過ぎず、食べて寝ているだけ。
そして子孫を増やしているだけ。
なぜなら肉の身体は、そんな風にしか出来ていない。
初めから…
もしも、人が全く教育を受けずにただ生きていたら、必ず弱肉強食の世界となる。
「人」に成るとか言って、人という字を説明するが、「なぜか?」
それは、物質の世界に生まれるということは、動物の進化に過ぎない身体に入るからでしょう。
社会の中でお互い共存するためには、教育でもしなければ、まともにならないから。
自然に生きていたら赤ん坊は生きる為に、オッパイを吸うことしか絶対考えていない。
お母さんも、育てることしか何にも考えない。
お父さんは、それを守るために、金を運んでくることしか考えない。
「この子が大きくなるには、どうするか?」
とにかく「食べること」「生活すること」あとは「人を押しのけること」しか考えない。
それは将来、社会を暗くすると人間は考えて、教育するのである。
社会と宗教的な教え
何のルールや規範もなければ、みんな好き勝手に生きるだろうし、結果として強い者が勝り、弱いものが苦しむのが必然だからね。
つまり強い子が弱い者をいじめる、これを認めてしまうと、将来は本当に力のあるものだけが幸福になる社会になる。
そこで「みんな仲良くしましょう」「道徳倫理を学びましょう」「悪いことはやめましょう」「法律は守りましょう」と教える。
最近の教育というものは、人としての教育が希薄になって、学問重視の感じを受けるけど、ある意味では大人になってから困ってしまう人も多い気がする。
子供はその時点で、大人と同じような理性も育っていなければ、判断力も育っていない。
つまり肉の脳が、そんな風に進化して来なかった。
その判断力が出来るのが中学生、高校生になってから。
それまでは動物のまま。
少しずつ判断力も理解力も理性も全てついてくる。
よって、それまでに教育して行かないと、いわゆる人にはならない。
ならないということは、人の本質は実は弱肉強食「己が生きる、人は死ね」これである。
大きくなってから、理性とか頭脳とか、そうしたものを使って、おのれたちが生きやすい社会をつくろうとする。
その時に「教え」というものが出る。
その「教え」で社会を安定させる。
それが人間である。
現代では、どんどん細かなルールが増えてきてしまっているけど、単純に「教え」だけでは社会の安定が保てなくなっているからなのかな~?
ところで、どんな立派な教えも、あくまで「教え」でしかない以上、絶対ではないよね。
もちろん、環境が変わると「教え」が変わる。
つまり男が力を持っていれば「女は男に従え」、殿様が力を持っていれば「臣は殿様に絶対忠誠」これが正義。
が、社会と環境が変わると、男女が平等で殿様も町民も平等になる。
また社会が変わると再び変わる。
たとえば「あらゆる生命は皆平等だ」と言うと、動物の生きる権利を保障することになり「人間は国土の半分だけを利用しよう。
あとの半分は動物に開放しよう」必ずこうなる。
となれば、何が良いのかさっぱりわからないけど、人間というものは、やたらと自分を他に押し付けるところがあるけど、その根本はなんだろう?
要するに「人間だけが自然を壊してしまいそうだ!」つまり、おのれを守る自己保存のために「自然を守ろう。そのために動物を生かそう」それだけのことで、人間の本質は何も変わってない。
「人が生きるとは何か?」放っておいたら弱肉強食でしかない。
かならず強い者が弱い者を殺して、己が一番だというサルの社会と同じ。
それでは困るというので教育をする。
その教育をしてきたのが誰かと言うと、いわゆる宗教の教祖達である。
キリストであったりブッタであったり、いわば孔子であったり老子であったりする。
つまり人々を導く人でないと、国家が決めても誰も信じない。
なぜなら、考え方は常に反論がある。
「殿様に従いなさい」それを言うと必ず抵抗する人達が出て、これを宗教家が言うと、人は皆ついてゆく。
そういえば、国会議員の人気は長続きしないからね。
なぜ宗教は無くならないのか
宗教家に支持する人は、多少不評が生じたとしても政治家のそれとは異なるように思う。
説得力が違うのかな~?
なぜなら、そこに神や仏や天や何かしら、人にはない何かを発見するがために信じるのである。
が、どこかの政治家が言っても、違う政治家が、必ず反論する。
人間の脳で考えたことは、所詮その程度。
必ず反論がある。
そうすると国が二分して、戦争につながる。
国が何を言っても、人々は決して従うことなどない。
そこで登場するのが、必ず宗教家という人達。
これが世界を変えて、ずっと現代に至っている。
もしその人達がいなかったら、人類はいまだに弱肉強食でサルの社会をつくっている。
一番強い者がエサを全部食べる。
あとは残ったものを食べる。
別に強い者が出たらその人は、追い落とされておしまい。
これが、人の社会。
そしてそれは、肉体を持つがゆえの性質。
では、「なぜ人間は、それでは嫌なのか?」
動物と思えば人間も同じような気もするけど、やはり異なっているよね。
知能が違うと言う人もいるけど、本当かな?
それは、霊だから。
人は霊というものを本質に持っているので、それだけでは常に嫌なのである。
そこで、人はたとえどんな社会でも良いから、霊的な満足を得ないと、生きられないように本当は出来ている。
なぜなら、どんな原始社会でも、人は神を崇めてきた。
「なぜか?」
その脳にそうしたものが組み込まれているからかもしれないが、そればかりではなく、霊的な感性が、はじめからある。
地上に生まれた時、ただの肉の身体だけではない。
人の霊的部分が地上に入っているのだから、幽的な感性は最初からある。
そういえば、生まれた家や環境など関係なくても、宗教的なことを求める人もいるよね。
なぜか見えもしない、聞こえもしないのに高貴な存在を求めようとするのが、霊的な部分の感性か!
それが、最初から神を求めようとする。
ということは、元々いた世界では、それが前提だったということになる。
よってどんなに科学が発達しても「なぜ宗教が滅びないか?」
それは人の本質そのものだから。
あらゆる物理法則が「神は絶対にいない」「霊は絶対にいない」と言ったとしても、それは物理的にそういう結論が出るだけで、己の霊的な部分は、常にそれが間違いであるとわかっている。
それは、それまでの宗教や霊に対して主張する人達が、残念ながら「そこまで知恵がなかった」というに過ぎない。
現代でも、いかに科学が進歩しても、霊の存在を認めようとする人って、かなりいるみたいだし。
信仰心とは別かもしれないけど…
現実は常に存在していて、「霊的に生きるかどうか?」が地上に生きている意味そのものである。
つまり奴隷の社会にいても原始社会にいても、封建社会にいても、霊的に高い人は高い、低い人は低かった。
大切なことは、たとえどんな環境であっても霊的生命体としての人間が、「霊的に生きることができるか」なんだね。
死後の世界は、善悪でなく進歩か退歩
「教え」というのは、時代やその環境において人々の考えは異なって当然だから、それに即したものなんだ。
たとえば、昔は「殿様は絶対である。私に忠誠せよ」と言っていた。
それは、今の人達から見ると平等ではないから、大変悪い人となる。
「あんな悪人!」といっても、その時は一番良い人だった。
善人と呼ばれていたし、立派な殿様と呼ばれていた。
あるいは妻を虐げていても「あの人は人格者だ」と言われていた。
では「その人達が極楽に行ったのか?」
今の感覚でみると、たとえば山のようにあっちこちに奥さん以外の女性がいっぱいいて、常に泣かせていた。
が、その当時のしきたりでは、当然金持ちはみんなそうであった。
さて、この人は大変な善人として地上を去っている。
が、現代人は「そうした面が悪いところだった」と言う。
昔であれば上の世界に行って、現代なら下に落ちるというわけでもないよね。
「難しい!」
今たとえば、平気で蚊を殺しているが、蚊を殺さずに生きられるような発明ができたなら、未来の人は必ず言う。
「昔の立派だと呼ばれている人達は、平気で蚊を殺していたそうだ」
「蚊が嫌がるガスをちょっと出せば、蚊が絶対寄って来ないのだから、殺さなくて済むのに…」
「あの時代は、どんなに立派と呼ばれている人も、平気で虫を殺す」
「そうしたガスを出して、殺していたそうだ」
「悪いねぇ~。先祖は全員悪党だ!」となる。
必ず、そう言われる。
さて、原始時代は他の部族が襲ってくる前に、先に襲って全員殺して首をハネる。
そして首を神々に捧げる。
「あぁ、こんな立派な人はいない」そう言っていたのである。
「生けにえを捧げよう。村から娘を二人さらって来い」そして、生けにえとして捧げた。
それが最も立派な行為だったのである。
「本当に悪かったのだろうか?」
現代においては、そういった行為を賞賛すれば、袋だたきに合ってしまうけど、その時は当然の行為だったのでしょう。
今の人は、明らかに悪いと言う。
が、それは教えを説いた主が悪いと言ったから悪かった。
教えを説いた主が「いや、一夫多婦制でもかまわないよ!」そう言ってたら良いのである。
現実に、イスラム社会ではどうということはない。
それだけの基準。
とりあえず人間の考える善悪など、絶対ではないというわけでしょう。
となれば善行、悪行というものがはっきりしないけど、霊的には関係なくなるのかな?
霊的な現実はそうではなく、霊的社会においての尺度はハッキリしている。
肉の身の人間が何をしようと、所詮肉の体を持つがゆえの行為でしかない。
善も悪も全く関わりなし。
単純に魂、幽体、「進歩向上か、退歩か」これだけ。
何ひとつ基準なし。
なぜなら、肉は弱肉強食のように、はじめから出来ていて、強い者が弱い者をいじめるように、はじめから出来ている。
そういう身体に入っておいて、今さら善も悪もあるか!
最初から、それが前提で生まれて来ているのである。
が、それでは暮らしにくい。
相手の幽体を傷つけてしまうので、教えが出てくる。
が、教えが違えば言うことが真反対。
となると、普遍の真理は絶対これではない。
これは偉い人が言ったから、正しく見えるだけ。
人が暮らしやすい安定した社会をつくろうとすることは、悪いことではないよね。
ただし、霊的な真実とは別に、教えというもは所詮、時代と共に変化し得る流動的な部分が強いのであって、 それが普遍的なものでないとすれば、霊的にはあまり価値がない場合もあるということだね。
霊的レベルと霊能力
じゃぁ、普遍的なものって何かな?
普遍の真理はひとつしかない。
人にはピラミッドがある。
霊的な世界をピラミッドに例えれば、階層というか上下があって、その世界にふさわしい様々な霊魂がいるってことだ。
人間が霊的に向上すると、ピラミッドの上と感応する。
低いと、下と感応する。
これしかない。
世の中には非常に誤った人達がいて、法則と違ったことを言っている人達がいる。
たとえば、「私は霊が見える、声が聞こえる」だから霊的感受性が高いと考える人がいる。
霊魂が見えたり、声が聞こえたりすることは、通常ない能力なので、普通の人は霊感が高いと考えているんじゃないかな?
さて霊的な感受性は「高いと言うのか、低いというのか?」
「強いと言うのか弱いと言うのか?」
つまり根本的な問題は、このピラミッドにある。
見えることが良くないのか?
「いいえ、見えても一向に構わない」なぜなら、人間は幽体を持っているのだから、別に幽体の視力があっても何も悪くはない。
でも霊能力的なものがある人って、おかしげな人がいっぱいいるからね。
つまり一番問題なのは、
「その人の幽体がどのレベルか?」
「その人の魂の質がどこか?」
例えば、ピラミッドでいえば、てっぺんの部分に感応する幽体であったなら、一番下の方とは基本的に感応しないので、いわゆる低い霊魂など最初から全く見えない。
よって霊的に進歩向上しているのであれば、「あぁ、低い霊魂がいた」と言っても、本当はぜんぜん感じない。
上の方としか合わない。
これが本当の自然なスタイルである。
「見える聞こえる」
「あの人にいる。あんな霊がついている」
というのは、本当は意識の低い霊魂と魂の質、幽体の質が近いから。
つまり霊的な感受性は強いが、低いということになる。
世の中の霊能者の多くは、ほんとかどうか知らないけど、良く見えるらしいし、話したりもしているみたいだ。
誇らしげに言ってるよ。
あやしいねぇ~。
霊的なレベルを問題にするなら、感受性は高くて強いことが理想。
感受性は絶対弱いより強い方が良いのである。
なぜなら人間は幽体なのだから、肉体があったって絶対感受性が強い方が良い。
が、強いということは高いから良いのであって、世間一般のように「あなたのところに水子が見える」これはその水子と己の幽的な視覚が共通しているからである。
ということは、間違っても高級ではない。
間違っても、人を幸福に導く力がないということになる。
霊能力者にも霊的法則がある
低いレベルの霊能者というのは、その背後の力をかけている霊魂が低級霊なのだから、一緒に下の世界に引きずり込まれたらたまらないよ。
こういった霊能者とは関わりたくないね。
でも、高級な霊能者は低級霊を除霊できないことになるけど…
「高級な霊的知覚者とは何か?」
当然かなり上の方の霊魂としか本来は感応しないので、やむを得ず、この霊魂に仕えているずっと下の方の霊魂に、つまり神社で言えば、神様から眷属までいて、上から下までいる。
そのうえ、動物霊まで入っている。
上にいる霊魂であれば、一番下まで指示系統が出る。
高級霊に従う、ちょっと上の霊魂が活躍してくれるのでわかる。
直接悪い霊魂と話をするという段階では、いわばテレビでいえば、同じチャンネルに合わせないないと、「見えない聞こえない、話せない」それは当然、同じレベルでなければならない。
同じレベルでなくて、「どうして話しができるか?」無理である。
低級な霊魂が神様を見える訳がないし、となれば意思が疎通する訳がない。
だから救われていない。
意思が疎通するのであれば、みんな救われている。
考えてみれば、もともと低級霊と高級霊が、お互いに通じ合うのであれば、わざわざ霊能者の力など借りなくても、自分で「神様、救って下さい」とお願いすれば、みんな救われているはずだし。
霊的感受性は絶対強い方が良いのであって、修行者も同じ。
強くないといけない。
その強さというのは、高級なものが直感できる力をいう。
かならずしも、「見える、聞こえる」というような霊的知覚にこだわる必要などなく、ピピッと来るものがあればいいんだ。
たとえば、霊的なトレーニング禊法の初伝に出た人はみんなわかるはず。
それまで分からなかった雰囲気が、何となくわかる。
何となく、「これが高い、これが低い」というのがわかる。
禊の初伝以上は、みんなわかるものである。
こういったものが感受性である。
霊的修行法を実践していると、「気」というものに敏感になるらしいよ。
「見える、聞こえる」というのはテクニック。
このテクニックは誰でもつく。
禊の次伝に出てる人は、誰にでも出来る。
ちょっとした練習で、誰でも出来るようになる。
だから感受性ではなくて、知覚力。
知覚力はメガネをかければ、誰でも見えるのと同じ。
すぐにわかる。
が、それを持たせないようにする。
それは、知覚力を持つと残念ながら、すべって行く人が多すぎるから。
単純にそれだけ。
普通の人にない能力だから、次伝あたりで霊的知覚を持てば、ほとんどの人は、天狗になって真っ逆さまに落ちるんだろうね。
それと、それでもある程度のランクに上がってしまうと、こういったものはなかなか見えない。
そうなってしまう。
つまり、低い霊と交流しているということは、その人自体が死んだら、確実に下の世界に落ちる。
そして、後ろにいるのも全員邪霊。
高級な霊魂がいることは、絶対ない。
だから、霊視も持ってはいけないし、まして霊魂を救えるわけなどない。
そう簡単に霊魂が救われるくらいなら、誰も苦労しはしない。
同じ穴のむじな。みんな一緒なのだから。
ちょっとでも上でないと、諭すことなど出来ないのである。
世の中で言う「見える」イコール「低い」ということのだから、霊的トレーニングなどをしっかり行い、かなり上級になって「見える」ということになると、下の所は見えていない。
たまたま某神社に行ったら、「あまりにも高貴なものが見えた。一生に一回の喜びだわ」こういうレベル。
まして低級霊など「さっぱり見えない」となっているはず。
出来の悪い人ほど救われる
最近は困ったもので当会の諸先輩方ですら、様々なことをおっしゃっておられて、誠にもって「今まで何を学んで来たのか訳がわからない?」という人達がいる。
それでも、まだまし。
なぜなら、我々に言わせれば、人はどうせ普通にしていれば肉体の視力しかないのだし、見える訳がない。わかるわけがない。
ということは、霊的なことに対して100%正しいなんていうことは、最初からあり得ない。
ということは、一番肝心なことは、この方向性、これさえ合っていれば、細かいことは間違えて当たり前。
多少の間違えがあっても、霊的な進歩向上につながることであれば、あまり目くじらを立てる必要がないってこと?
「そんなこと間違えてたら絶対ダメだ!」と言っていたら、一言もしゃべることが出来ない。
当たり前のこと。
よって少しわかったら、もうそれで根本的な方向性さえ合っていれば、細かいことは言わない。
よって何ら恥じることもなし。間違えて当然。
どんどん間違えても良い。
自説を公表すべきである。
現代で宗教といえば、うさん臭いと言われるからね。
それでも霊的な進歩向上は何より大切なことだから、真面目に考えようとする人の目に止まらなくちゃいけないよね。
なぜなら、世の中は霊的に最悪で、滑った転んだといって、みんなで下の世界に真っ直ぐになって落ちて行くのだから、もう「神も霊も何もない!」という人達は、元々霊的に向上するチャンスも何もないから、もう下がる一方である。
また、霊的にどうのという人達は、みんな「私は幽霊を見た」見えるだの聞こえるだの、もうただの病気で、みんな一緒に下がって行く。
誰も上の方へ行かない。
上の方を見る人達は、みんな教えに凝り固まって、ちょっとでも外れると天下の大悪党のように人を責めたてる。
これでは、もうどうにもならない。
そうだよな~。
唯物論で頭の堅い人も多いし、霊に興味があっても幽霊だし…
宗教を信仰しているという人も、難しいことばっかり言って、大昔の「教え」に固執している部分もあるから。
大事なのは「善悪」でもないし、「見える聞こえる」でもないのだから、己が魂である以上、物質のままに生きれば、確実に下がる。
決まっていることで、霊的に生きるしかない。
人間であれば、それは常に間違って当たり前。
わからない世界なのだから、先輩だって、間違ったことを言うに違いない。
しかし、本質さえ外していなければ、それでいい。
一歩一歩自分が向上して行けば、やがてわかる日が来る。
「あぁ、先輩はこんな事を間違えていたのか?」だからといって、別に責める必要もないし、それだけのこと。
何も知らなくても霊的に高い人もいるし。(まぁ、最近めったにいないが)
さてそこで、一番大事なこと!
はっきり言って、神であれ、仏であれ「天上天下唯我独尊」こう言い切る人だけが正しい。
「世の中に真実は山のようにある」という人は確実に間違い。
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」って、お釈迦が言った「天にも地にも我ひとり尊し 我こそ最も尊きものなり」ということでしょう。
なぜなら、法則は昔から一回も変わっていない。
ずっと同じだから正しいことは昔からひとつしかない。
沢山あることは、あり得ないということになる。
そんなことを思うから、山のように顔を突っ込んでは、山のように全部言うことが違っていて、どうして良いかさっぱりわからず、あっちこっちの霊魂団にみんな憑依されて、結局わけがわからなくて、後はスッ飛んでしまう。
ということは、あまり難しいことを考えても、あまり意味のないことだから、霊的な法則に即した生き方が出来れば良いってことか…
偏狭だと言われようと、何と言われようと、その人が正しいと信じて、それでそのまま霊的な向上を得れば、本当はそれで良い。
クリスチャンであれイスラムであれ、彼らはハッキリ言って偏狭と言われる。
全く情けない人達となる。
が、霊的には実のところ、いわゆる普通の人より、やはり上である。
なぜなら「神にのみ」
そのことだけで霊的な質量が飛び、うまくすれば指導霊から力が降りうる。
となれば幽的な成長がある。
人間的には「まぁ何と視野の狭いことか」、それでも死んだ時には、やはり上に行きやすい。
なぜなら、それは魂の本質だからである。
魂の本質的部分の欲求は、単純に神という存在を求め、自分自身の霊的進歩向上を遂げることが自然なんだね。
そうした視野の狭い人達ではなく、幅広い知識と教養と理性と道徳心を持った立派な人は残念ながら、霊的には何の価値もないので、どんどん下がり、地獄の苦しみで「どうして自分はこんな辛いところにいるのか?」これが真実である。
「出来の悪い人ほど救われる」
ここでは、自殺を推奨している訳ではありません。
霊魂によれば、自殺したからといって、皆、不幸な世界に行くというようなことはないのです。
また、それぞれに生まれたからには、やるべきことがあるそうです。
霊的真実を知り、それを踏まえて、人として力強く生き霊的進歩向上することが何より大切だと思います。
もちろん一生懸命生きることを、高級霊も勧めています。
講演会は、対話形式ではありません。