心の正体
心について教えてください。
心は、人それぞれに特徴をもつ。
が、決してまるで違うものでもなく、同一でもない。
卑弥呼の昔より、心の正体は、今の科学よりわかっていた。
それは、科学は心を見つめるが技がないからである。
常に心は謎だらけ。
もし、科学者が分析をしたら、人に様々な図形や絵を見せ、どうした傾向を持つとか、こういった性質の人はどうかとか、もしくは脳の機能がこうであるから、こういう性質になるとか、そうしたうわべしかわからない。
にもかかわらず、古代の達人は、いちいち脳を解剖するでなし、人にテストすることもなく本当の姿を見ぬく。
それは、心が人の霊的部分抜きには考えられぬ、大きなもののためである。
自分の心でさえ、自分なのによくわからないんだ。
心という器官があれば、わかりやすいけどね。
脳にあると言われれば、そんな気がするけど、緊張すると心臓がドキドキするし、悩みがあると胃が痛くなったりもする。
本当はどこにあるのかな?
つまり、肉体は遺伝する。
遺伝するために親と子の脳は、その脳のつくりは、必然的に遺伝が入ってしまう。
仮に、ある科学者なる人が脳を開き、ある電気を脳のこの場所につけたら、その人は、こういう夢を見たとか、さまざまに実験をするとしたら、人の感情や夢ですら、外部からの刺激の影響でしかないことになる。
となれば、脳の仕組みが遺伝なら、性格の似た子や、仕草の似た子も誕生するであろう。
が、それらが全て同じ個性か否か。
あるいは、同じ魂か否か。
これらは全て、親子といえども別である。
親子で顔がそっくりでも、まったく性格が違う人もいるし、同じ環境で育った兄弟でも、ぜんぜん違っているからね。
赤ちゃんの時から個性っていうようなものがあると思うけど。
それはどこから来るのか?
肉体の脳が消滅すれば、あの世で今、我々が生きている時の感情や記憶がある訳がない。
全て肉体の脳の機能なら、肉体の消滅とともに全て消えてしまい、あの世の個性は決していない。
ところが仮にあの世があり、霊魂として死後も我々が、この記憶を持ったまま存続していたら、科学上の結論が間違ってきてしまう。
しかし、実験結果は変わらない。
答えはどこにあったのか?
心は物質科学では解明できない
現代は遺伝子というものに、詰め込もうとしているみたい。
DHAっていうやつ。
んっ、DNAだ。
DHAはマグロのめん玉。
つまり、今後、物質を扱う医学、科学なるものが、数千年進歩し続けても、人の心はわからない。
それは、脳を調べ、反応を調べているだけだからである。
反応しない部分、反応に出てこない部分、脳の刺激ではわからない部分、これがあるから人は死後の世界で生きて行ける。
にもかかわらず、それが絶対に医学も科学もわからないとすれば、人の正体は絶対にわからない。
つまり、人が人を知るとは、いにしえの達人のごとしである。
霊的な部分の感性である。
心というものは、霊的な部分の意識、それが心に作用しているんだ。
ある時、ある人が言う。
「心があると言うのなら、人は生きているわけがない」
「なぜなら、心は、己の心の奥は己にしかわからぬが、他人の心の奥も、他人にしかわからない」
「となれば、お互いに己が生きているのだと思うだけで、相手が生きているかどうか、永遠に謎になる」
「つまり、相手が前にいるという知覚は、己がそう思っているだけであり、夢かもしれず、映画かもしれない」
「お互いにそうである時、仮に機能を失い、相手が前にいることがわからないとしたら、自分は、相手の存在も永遠にわからず、相手も己の存在を永遠にわからず、誰もいないことになる」
「心がもし仮になければ、無関係な第三者が判定するのだから、いるものはいる。いないものはいない」
「心があると、主観的な基準、つまり、私はこう思う。あなたはこう思う。アメリカ大陸など絶対にない」
「いや、人は宇宙など絶対に行っていない」
「行っていたと、テレビが報じているのであって、スタジオかもしれない」
「スタジオで作ったビデオに、違いないと言う」
「誰もそれを証明していないのに、みんな人は、宇宙へ行ったと信じている」
「つまり、その人の心が、それを信じただけである」
「仮に、この世の人から全て心が抜けたら、第三者の生命体があるものはある、ないものはないと言うだけであり、人々の社会では、誰もいない」
難しくてよくわからないぞー!!
しかし、我らは言う。
そうした難しい議論などどうでも良い。
心とは、人には絶対にわからぬもの。
言うまでもなく、物質の脳で考えている次元で、物質でないものまでが心である自分がわかる訳がない。
難しい議論などどうでもいいんだね。
良かった!
心、精神に対する教え
人間は心でつまづいているのに、どうすれば良いの?
つまり、人が何であるかがわかるのは、唯一、肉体を着ていない人のみである。
肉体を持てば、人は己の正体を知ることはない。
人間って、自分のことすら良く分からないのかも知れないね。
自分も霊魂だっていわれても、ピンとこないから。
それを知らずに、「心とはなんぞや」とか、「心はこうすれば成長する」とか、「こうした心は高い」とか、いろいろなことを言ってみても小さい。
幼稚園児で言えば、今日ママゴトをする。
そのママゴトの順番が、どちらが先かと言って、決めつけているようなものである。
全体から見れば、そんなものは、どちらでもよい。
人は外見より中身とか言うように、心が人間の価値のような気がするよ。
仮に、怒っているばかりいる人と、温厚といわれる人がいた場合、心の高低はどちらでもない。
はっきり言って、どっちでもいい。
霊的な魂は、そんな一部ではない。
とすれば、世のいわゆる悟りは、全部無意味である。
所詮、己の心が悟ったと思い、自己満足し、相手に偉そうに言いたいだけである。
心にばかりに、こだわってしまうと、ダメっていうこと?
なぜなら、それは、人の正体ではないからである。
昔々、1~2千年前、人はそうしたことがありがたかったし、そうした教えがないと、生きにくかった。
今のように自動車が走り、人がはねられ、飛行機が飛び、宇宙まで出るとは、その頃まだ考えていなかった。
今は、もう通用しない。
現代人には、現代人が理解できるようなものでなければならない。
人の心を語るなら、霊魂に聞くしかない。
魂は心ではない。
霊も心ではない。
ということは、心が人間の本質ではない、ということになるね。
が、心は人間というものを表現する一部である。
そのため、その心をうまく操らないと、地上では生活が難しい。
あまり感情的な人だと、人間関係ギクシャクするからね。
昔、仏教は、さまざまな方法を考案した。
が、それは手段に過ぎず、法則ではなかった。
つまり、人がご飯を食べられず、悩み苦しんでいる時、「どうしたら救われますか?」と聞かれれば、「欲を捨てよ」と言う。
どうせ食べられる当てがない。
皆、貧乏で誰も金持ちになれる見込みがない国の中で、欲ばかり持てば、その欲がいつまでも得られぬという不満から、やがてストレスが溜まってしまう。
体も悪くし、他者と争い、犯罪を犯すしか手段がなくなってしまう。
そこで、「身の程をわきまえて、これをもってありがたいとせよ」と言いたくなる。
また、「世の中は全て変化であるから、実質は何もなく、それにこだわってはならない」と言う。
こだわると必ず、苦しみがくる。
なぜなら、ある地位にこだわっている時、その地位が危うくなったら、そのために全てを忘れて、必死に防戦しなければならなくなり、心は辛くなるばかりである。
もし、こだわらなければ、楽で仕方がない。
現代の日本人から考えると、想像もつかないような環境だよね。
とにかく、「寝ていよう」って感じかな?
よって、苦しみからどう脱出するのかという、哲理ばかり増えてしまった。
が、それは人が宇宙へ出るような時代を想定していない。
昔々の考えである。
人が救われたいと考える時、いつも自分の苦しみ、悩みから開放されたいとか単純に考えてしまう。
ただ楽をしたいとか、自分だけは幸せになりたい。
それだけだから。
よく「愛が大切である」なんて聞くと、みんなうなずくけど、人の争いはなくならないし、なんだか殺ばつとしているような気がする。
苦しみからの開放
じゃぁ、昔と大きく変わった社会では、どうすれば良いの?
これからは、仮に人が苦しみから逃れ得たとしても、そうすることが良かったかどうかを考えねばならない。
たとえば、断食をして日々瞑想し、仮に欲を少なくし、より大きな高い目的のみに、欲を持つという人ばかりになったとする。
誰がご飯を作るのか?
片方で誰かが、ご飯を作っているからこそ、片方が瞑想していられる。
全員、朝から晩まで瞑想していたら、まず間違いなく、みな栄養失調の時代が来る。
つまり、インドのような大自然で生きる所とは違い、この狭い日本の国の中では、ましてビルの中では、インド的な生き方は不可能である。
必ずストレスがたまり、病気になってしまう。環境が違うからである。
日本人は働き者だからね。
何かしてないと落ち着かないから、じっとしていられないんだよ。
そうなると、違う考えをせざるを得ない。
全員がお悟りになって、目の前で子供が溺れているのに、一歩も動かず座禅を組んでいたら、間違いなく小さい子供は、溺れ死んでしまう。
そうなる悩み苦しみは、必ず深い深いカルマをつくる。
そこで我らは、「座禅をやめて子供を助けろ!」という。
つまり、皆が皆、苦しみから脱出し得たとしても、そのこと自体が、霊的進化につながらない場合があると言いたいのである。
目の前の現実から目をそむけるのは、良くないということ?
皆が苦しんでいても、そのことが霊的進化ならそれでいい。
例えていえば、この食事を食べるか否かという時、肉体のためには食べたい。
が、精神のためには食べたくないという場合がある。
逆に肉体のためにはもう飲むなといっても、精神のためには飲んだ方がいいかも知れない。
つまり、人は肉体をもっているために、苦しいことから救われることと、正しいことがいつも違っている。
となると、正しい事は多少の苦しみを伴っていることになる。
人生の悩みや苦しみは、必要なものなんだね。
他人のことはどうでもよく、隣に強盗が押し入り、気にすることもなく黙って瞑想していられれば、心は騒がず苦しみは来ないかもしれない。
しかし、隣の子供が、自分の子供と同じクラスで、普段から付き合っていて、その子が強盗に殺されるかも知れない。
もし、自分が行ったら、助けられるかもしれないという時、心を動かして己が苦しみ、やはり助けたほうが良い。
つまり、人は全員が全員、同じような心を持っていない限り、必ず、他人の人生に巻き込まれる。
必ず苦しみを背負う。
しかし、その苦しみは必ず必要になる。
その苦しみから脱出することばかり考えていると、絶対真の意味での進化はない。
ある信仰を持ったから、ある座禅をしたからといって、人の心が、ただ平安であってはいけない。
自分のことだけを考えていると、気分的にすごく楽になる。
でも、家族のことや、まわりの人間関係、将来のこといろいろ考えてしまうと、悩まずにはいられなくなってしまう。
だからこそ、他人の苦しみを感じてしまい、余計に苦しくなるで良いのである。
そういった個性しか霊的には高くなれないし、霊的に高いと呼ばれる個性は、そうした気持ちがあるからこそ、わざわざ地上に降りてくる。
人間がどうでも良ければ、降りてくるはずもなし。
人間に生まれる必然もない高貴な魂が、人々を導こうと地上に降りて来るらしいから。
どんなに霊的に高い世界へ行き、バラ色の人生、いや霊的な人生であったとしても、それだけで良ければ苦しみはないかもしれないが、地上の人たちが苦しんでいれば、地上に降りて来る。
となれば、その人生の苦しみを半分背負ってしまう。
なぜなら、行動そのものが縛られるからである。
好きにしたくても出来ない。
親が子を心配するがごとし。
どうしても、この人生に巻き込まれる。
それを承知でなければならない。
地上の人が全員、幸福になれれば別だか、そんなことはあり得るはずもなし…
霊的に低い霊魂は、人間を操りたいとか、仲間に引き込みたいとか、人間が辛かったり、苦しむ姿を喜んでいるけど、高級霊は本来住むべき世界にいた方が楽なんだよね。
それでも、自分を犠牲にして、地上の人々が幸福を得られるように働きかけているんだ。
となれば、どんなに霊的に向上しても、人の心は悩み苦しみでいっぱいである。
それが、高い魂であって、悩み苦しみがなくなったらあまり高くない。
「悟った」なんて言って、穏やかそうな顔していると霊的に向上しているような気もするけど、逆だね。
つまり、関心を持つべきことに、関心を向けていない証拠だからである。
しかし、それでは、あまりにストレスがたまって、自分の身体がもたない。
だからこそ調和がいる。
つまり、適度な調和により、何も、全て己が背負ってしまったら当然生きられないから、どこかで外しながら、己が成すべき事は何かと考えねばならない。
それが心を少しづつ発展させ、成長させていく。
心が救われるためには
やっぱり大人と子供では、心というものは違っているような気がするけど・・・
年を取ると子供に戻るって聞くけど、心というものが大人になると変わってきて、年を取るにつれて戻ってしまうのかな。
人は年を取ると記憶が落ちて行く。
若い時には英語の単語を1時間に百個覚えられるのに、年を取って初めて英語を習うと3つも覚えられない。
つまり、記憶であれ何であれ、脳の力が落ちてゆくことにより、表面的な心の能力も、落ちてしまう。
そして、同じことばかり言うようになり、昔のことばかり言うようになる。
そうなると、若い人からどんどん嫌われていく。
うちの親父もお酒飲んで、3回くらい同じこと聞くんだよ。
それで、次の朝また同じこと聞くから、まいったね。
しかし、それは人の脳の現実であって、霊的な高さと心とは、全然関係ない。
心を成長させるにはどうすればよいか?
実に、社会と呼ばれるものが、最小限の倫理を持たないとお互い殺し合いになってしまって苦しいから、これはそうならない様にうまく慣らしていき、うまく調和していかねばならない。
が、それでも対立は起こる。
いうまでもなく、「全員で他の国へ戦争をしかけよう」ということになれば、それは「ダメだ!」と言わざるを得ないから、やはり対決せざるを得ない。
つまり、霊的に進歩し、心が成長するためには、不可欠な対立もあれば、不可欠な怒りもあり、不可欠な争いもあり、不可欠な苦しみもある。
それらを全て捨ててしまったら、絶対成長しない。
また、心にいくつも異議を持っていたら、高級霊魂が来るということも絶対にない。
人間というものは、良い部分もあり未熟な面もあるのだから、本当に悪いことに対しては、怒りを感じて当たり前ということだよね。
いうまでもなく、表面意識が人間の魂のほんのわずかだから、その魂の全体の持つ質に相応しい霊魂が、いちばん感応しやすい。
となれば、今、怒っていようが、喜んでいようと全然関係ない。
イエスキリストやお釈迦様が怒ろうが笑っていようが、関係なく霊的には高く、普通の人も同様に、表面の意識の感情の変化は魂の本質ではないということだね。
が、人はなるべく微笑んでいた方が、お互いに人間関係がうまく行きやすい。
そこで、「そうしましょう」と言う。
いつもお互いに短気ばかり起こしていたら、到底、正しい生活は送りづらい。
したがって、なるべく短気はやめねばならないが、だからといって、怒りが全て悪いわけでもなく、感情が全てなくなった方が、良いわけでもない。
それで魂の向上とは、何の関係もない。
しかし、社会を生きる上での協調は必要である。
その中で、自分はどう生きるべきかを考えねばならない。
人は、心のみの救いを考えてはならない。
心が一部である。
心だけにとらわれると、人は迷ってしまう。
なぜなら、いま笑っていても、人は明日泣くものであり、これを考えるとき、心にあまりにこだわると、見えなくなってしまう。
なぜなら、まわりの人の心も変化するが、己の心も変化しているというのに、昨日の自分と、今日の自分が違っていたためである。
男の人も女の人も、心は変わりやすいからね。
だから、はじめから心は変わりやすいものだと、思っていればいいんだね。
それに、自分の心の中で葛藤が起きるから困るよ。
もっと単純に「今日は眠いから、会社や学校に行かない!」って決めたら、そのまま寝ていられたらいいけどね。
そうすると「自分はなまけ者だ、このままじゃいけない」なんて思ったりもする。
よって、それらを全て正確になど分析しようがない。
日々の社会の仕事でくたびれている。
日々子育てでくたびれている。
そんな自分が、全く第三者的に、全てを分析出来る訳がない。
つまり、必ず間違って己を眺めてしまう。
正しい目でものを見ることは不可能である。
始めから…
それは、より正しい目で見られれば良い、という程度である。
人間が心をとらえるのは、そうした小さな心だけれども、その小さな心が悩んだり、苦しんだりすると、本当に辛い。
涙が止まらない。
どうにも辛くてしょうがない。
そのくらいに人の心は、やはり苦しくなる。
だから、そのちっぽけな心でも、とても大事にする。
その大事な心を救う本当の道は、その全体である霊魂を知るしか、やはりない。
知っているのは、高貴な霊魂のみである。
霊言講演は、質問形式ではありません。
心を成長させることは確かに大事かもしれません。
しかし、心というものが自分の本質、魂というものから見れば、ほんの一部分でしかないようです。
その心も一部分でしかないけれども、深い意識とつながっているようです。
心を変えようとするなら、心に作用する何かを変えることが、本当に意味での、心の成長につながるのではないでしょうか。