人生の目的は、霊魂抜きには語れない
人間の人生における、霊的な目的とは何でしょうか?
人の一生はひとりひとり異なり、死亡の時期すらばらばらであるが、それは取りも直さず、人々の人生の目的が、まさに、色々な形であることを意味する。
つまり、飢えて仕方がないような国民のひとりとして生まれ、2才にもならぬうちに、飢え死にして行く。
そうした人は、その人生に何の目的があったのか?
その国に生まれれば、1才ともたず、何割も死ぬも、百も承知で産み、生まれ、その目的とは何か?
人が生きる上での目的は、人の考えではあらず、人がいかに頭をひねっても、己が生存していることすらわからない。
自分の人生の目的を考えると、よくわからない。
自分にとっての満足じゃないのかな?
人それぞれだけど、やっぱり長生き!
仮に、人が寝ている。
人は夢を見るが、生きているつもりだし、起きているつもりで、活動したと思う。
が、起きてみると、ただ寝ていただけ。
人は肉を持ちうる意識体に過ぎず、生きていると、本人が思っているだけ。
仮に、肉体を捨てて、死んだとする。
本人の意識があれば、生きているつもり。
家族が仮に集まっていたら、死んだと言って泣いている。
間違って肉体が蘇生し、再び活動を始めたとする。
再び意識が戻ったら、人は死んでいたのか、生きていたのか??
人は己が生きているのかすら、正確にわかっているや否や。
まして、肉体の脳で、人が生きる目的などわかるはずがない。
仮に、3才の子供がいる。
この子が「ご飯がほしい、遊びたい」と言って泣く時、その目的は何か?
肉体の保持のみである。
が、生きる目的が、仮に肉体の保持なら、死ねば何の価値もない。
人の個性が死後も存続することがあるなら、人の価値は、肉体の存続のみではない。
つまり、良い暮らしをするのであれ、地位を持つであれ、肉体の欲求に付随した思いは、これすべて肉体あっての話し。
となれば、食欲であれ、性欲であれ、肉体あってのこと。
仮に、人の胃が決して空腹をもたらさないとしたら、今ほど人は、食を求めない。
腹が減るから、人は食べたい。
絶対腹が減らないのなら、「そのうち食べてみよう」で終わってしまう。
よって、人は肉体の欲に伴う欲望は、どれだけ満たされたにせよ、人生の目的を持つほどのことではない。
スポーツ選手や、タレントになり、頂点まで登ったにせよ、だからどうしたである。
たとえばお金持ちになろうとして一生懸命貯めたとしても、いざ使おうとしたら死んでしまった。
これじゃぁ、むなしいよね。
あの世にはお金を持って行けないの?
我々霊魂は、肉体が滅んでも、なおかつ意識は存続し、やがて別の世界には入ると思っている。
そうであるとすれば、人生の目的は、霊魂ぬきには、語れないことになる。
神もしくは死後の世界を無視して、人生に意味はない。
人が、なぜ地上で生きるのか?
仮に、死後の世界があれば、2才で死んだとしても、別に問題はない。
必要があれば、また生まれるやもしれず、物質の世界がすべてなら、2才で死んだ子は、何の価値もない。
そうだよな~
生きることに価値があるとするなら、好きで死んだわけでもない赤ちゃんは、かわいそうだよ。
もしも、人に価値ありとすれば、霊的な生命を無視しては、成り立たない。
つまり、人生とは何かと、悩む時、人は霊魂を知る以外に、救いがないのである。
それを知らずに、いかに頭をひねっても、明日死ぬかもしれないのに、何を悩む。
本当に死後の世界がないなら、高校生がいくら悩んでみても、大学へ行く前に、死んでいるのかもしれない。
30年先の人生設計は、無意味である。
それは結果論であるけれども、自分がいつ死ぬかわかったとしても、何をやって良いのか、戸惑ってしまう。
残される家族のこととか、友達のことが、気になるな~
人は先々が見えないからこそ、なるべくなら不自由がないようにと貯蓄を考えるし、保険にも入る。
それは、すべて不安だから。
つまり、今のこの世が小学校だとした時、人は小学校を出れば、中学に行く。
が、中学校に行くことを知っていれば、小学校で学ぶことの意味がわかる。
中学が絶対ないと思っていたら、小学校でどう生きるかは、全然違ってくる。
つまり中学がないはずなのに、中学へ無理やり行かされれば、ついていけない。
苦しむだけである。
死後の世界が存在するなら、自分は天国に行くのか地獄に行くのか、すごく気になるよ。
死後の世界がもしあるとすれば、それを語らずして人生は、一切なにもわからないであろう。
そのうえで霊魂としての己が、なぜ地上で生きるのか?
それを、少しずつ明らかにする。
人が考える死後の世界は、妄想でしかない
年をとり、あと2年で死ぬとする。
その人は、何をすべきか?
もう人生は、大半終えてしまっている。
何をすべきか?
答えはただひとつ、「すべてを捨てるべし」己は、すでに肉体をやめる。
肉を止めるのが決まったら、「肉体を持っているからこそ出てくる、あらゆる思考をやめよ」である。
人は霊魂になるにしたがい、どうなるの?
言うまでもなく、霊魂としての本性を、表現してゆく。
そのため、肉体から、霊的身体へのなだらかな変換がいる。
そのために最も大切なのは、食欲や性欲はあっても良いが、肉体を保持する基本以外の諸々の物的な側面は、外さねばならない。
その意味は、人が生まれた時にさかのぼる。
そして、そのまた深い意味は、地上に人類が、なぜ生まれたかにまでさかのぼる。
死んで間もないある個性が、こういった体験をした。
まず絶対に、この世しかないと思っていたらが、たまたま、あの世があった。
そのために、深い傷を負った。
なぜなら、死後の生命体は、自分を認めぬ者を、認めないからである。
彼らの世界は、はっきりしている。
想念と想念で互いに通じ合う。
地上の言葉は、いらない。
が、レベルが違うと通じない。
よって、より上の存在と通信を保つには、己が必死に相手を認めないと、通じない。
つまり、己より一歩でも先に行った方に、手を引いてもらおうとすれば、己が頭を下げて、手を引いてもらわないことには、話しにならない。
つまり、霊的個性を認めないと、人には救いが来ない。
あらゆる書物の中で、臨死なる体験が言われる。
が、人は正確には、幽界になど行ったなら、戻って来ない。
彼が見ているのは、肉体の脳の延長であるし、我らの言う冥界の入り口である。
つまり、妄想の世界である。
彼らが共通した体験を持つということは、共通した妄想を持つ脳があるからである。
人が行く世界が、同じ訳がない。
アメリカで死んでも、日本で死んでも、同じ幽界になど行く訳がない。
幽界は、もっと遠い。
幽界というのは、死後行く世界でしょう。
臨死体験して、幽界に行って来たって言う人がいるけど、違うんだ!
その前にも、冥界というところがあって、その手前までしか行っていないとすると、肉体をちょっと離れただけじゃないの?
よく守護霊が、迎えに来てくれるって言うよね。
でも、守護霊もひとりの個性であるから、生きている時に交流がないばかりか、守護霊という存在を馬鹿にしていたら「迎えに行ってやるもんか!」ってなるよ。
困った時だけ、助けてくれなんて、やっぱり虫が良すぎるね。
つまり、人々の実験から、真実は絶対に得られない。
光の天使など、迎えには来ない。
来るわけもなし。
己が認めないものを、相手もどうコミュニケーションとやらを、取りようがない。
死後の世界と再生
そこで、人、死を迎えたら、霊的になるべし。
食欲、性欲その他もろもろは、やむを得ず。
が、それ以外に関しては、霊魂のみを見るべし。
それは、人が誕生してからのテーマであった。
人がこの世に生まれた唯一の目的は、2千年前にイエスが言ったごとし。
「汝の神を愛せよ」ただそれだけである。
人はそれだけのために生き、それだけのために死ぬ。
それしかない。
人は、大きな心得違いをしている。
2千年も前の古代の言葉など、何の価値があろうか。
が、古代だからこそ、その程度のことしか言えなかったに過ぎない。
古代の人の知的レベルが低いからこそ、その程度の言葉しか表現できなかった。
今なら何と言う。
神イザナギの大神、禊の大神、富士の大神、これがすべてである。
つまり、地上に生まれて生きる目的は、霊魂を語らねば出てこないのは確か。
霊魂を語ると、その延長に神がある。
それを無視して、何を語っても意味がない。
自分の未熟さを思えばこそ、より高い存在に向いていないといけないんだ。
だから、守護霊も霊的な向上を目しているわけだから、地上の人間が神を求めていれば、よろこんで迎えに来てくれるんだ。
例えて言えば、人には過去がある。
つまり、何度か人は、生まれ変わっている。
もちろん、人の個性がそのまま生まれるのではないが、〈これは難しいので置いておいて、一部が生まれているが〉、まぁ、とにかく過去世がある。
その時に、仮に大きなテーマを作ったとする。
例えて言えば、大失恋をして自殺した。
そのままあの世に行っても、その傷は忘れているが、霊魂としての進化のマイナスになる。
なぜなら、この世の肉体と肉体を持つ人がいるからこそ、起きた欲望である。
失恋やその他は、あの世の肉体のない世界では、経験できない。
そのためにその部分だけが、心の中にしっかりと残ってしまい、いつまでたっても消化していかない。
向上していかない。
幸いにして地上では、自分たちの子孫が延々生きている。
その子孫として、誰かの子供の中に、その意識の一部が入ってくる。
一部が入ってくると言うなら、過去世本人は、幽界に残っているんだね。
生まれ変わりっていうけど、全部が生まれ変わるわけではないんだ。
再生っていうやつだね。
霊的カルマ・因果報応
さて、はじめてそこで生まれた新しい生命とされるが、実は過去を持つその子は、地上で仮に、17なら17才になった時、同じような体験に遭遇する。
言うまでもない事ながら、己の肉体が、どんどん大きくなるにしたがい、肉体の脳が、そうした経験をする状態を作っていくから、意識の奥にある失恋して自殺したなら、自殺した心情が、表現し得る状況が生まれてくる。
そしてそれが、はじめて出てくる。
そのとき人は、また同じことを繰り返したら、生まれた意味はない。
それを、カルマという。
が、なぜかまた死んでしまったり、今度はその反動で全く逆のことをしてしまったり、様々な結果を出す。
「その霊的なカルマをどうするのか?」という。
自分では気がつかないけれども、年頃になって同じような状況になってくると、その過去世の心情になってしまい「もう、死んでしまいたい」と考えたりもするんだ。
我々霊魂は、それをどうすれば良いのか、知っている。
無論、禊なる秘儀をもっているので、なんとかするが、しかし多くの人達は、そのまま死んでいく。
何度も生まれても、生まれた目的など、一度もない。
つまり、とにかく霊的に進化するには、そうしたカルマを解消しなければならんのに、誰ひとりとして、そんなことを考えていない。
が、昔むかし、インドでクリシュナとか釈迦とか呼ばれた方々は、そうした問題をテーマにしていた。
日本でも、古代から禊があったということは、そうした問題がテーマになっていた。
つまり、人類にはカルマを解消する方法はもたらされていたが、まったく気づかず、数千年過ぎている。
そのうえにそうしたカルマをどう解消するかなど何も考えずに、いきなり、誰か救世主が人を救ってくれるなどと、勘違いしたりもしている。
所詮は、己の力でカルマを抜くしかない。
それには我らで言えば、禊をするしかないのであるが、では、そのカルマが人生のテーマであるかと言うと、必ずしも、それだけではない。
人々の浅知恵は単純に、「良い事をせよ」で終わる。
が、その個性の中の深い心情の中にどうしても、止めろと言われても、これだけは止められない。
あるいはこうしたものを見ると、どうしても手が出る。
そうした深い深い心情が、眠っている場合がある。
簡単には、解消できない。
だから「生まれてこない方が良い人間だ」というイエスの言葉がよーくわかる。
たとえば、人を殺したくなるような心情を、もっている人もいるわけでしょう。
その人の心情が爆発してしまうと、殺人を犯してしまう可能性もあるわけだ。
そうなると、また生まれて、多くの人を殺してしまった。
これじゃぁ、やっぱり生まれてこない方が良かったに違いない。
自分だけがおかしくなるならともかく、他人の人生、自由を奪ってしまうことだからね。
人生の目的はカルマの解消は当然だが、もうひとつ大事なのは、そのカルマの解消がどうせ無理なら、どうせなら「神のために死ね」である。
それが「汝の神を愛せよ」である。
すべてにおいて、人には限界がある。
いちばん大事なことを忘れて、人は肉体の脳で、議論している。
明日どうなるか見えないのに、明日の対策がどちらが正しいのか議論している。
愚かしい。
絶対に、どちらも正しくはない。
より正しい可能性を探っているのである。
人類の歴史
そこで、人はなぜ生まれて、なぜ死ぬのか?
ある個性は、こう言った。
人々がエデンの園から脱出できた時、人々は生殖する存在になった。
つまり、物質の世に幽質界から下がってきた時、人々は肉の身を着た。
そのために、肉体がなければ、起きない様々な殺戮が起きた。
食品を、食べるためである。
その結果、ありとあらゆる格差が現れ、生活の差、地位と名誉の差が現れた。
スターと、ただの人を生んだ。
それがやがて、激しい殺し合いになる。
そして、何も見えなくなった。
もともとあったはずの神も、霊魂も消えてしまい、いつの間にやら、偽りの神と霊魂ばかりになった。
現代の人達が神に祈るとすれば、商売繁盛、家内安全、受験合格とかそんのご利益ばかり求める人が多いよ。
小銭払ってさー。
人は、「神が人を殺せ」と言うはずがないと、思い込む。
が、神は人を殺したいわけなどない。
なぜなら、人は死ぬのが怖いし、殺されるのはいやだし、望んでもいない。
人に自由があるから、神はそんなことは望まない。
が、どうせ死ぬのなら、安らかに死なせてやりたい。
皆は神に対して、おのれ自身の勝手な欲望を、いつも要求している。
「神は、愛ではければならない」とか「人を救ってくれなければならない」そんな馬鹿なことがあるはずがない。
別々の存在に対して、別々の個性に対して何か願うなら、代償を求めず、である。
それが当たり前なのに、神はなぜ、己の心を理解しないと言っている。
つまり、神は代償など、もちろん求めていないが、代償がなければ、神に祈れない、というような真剣なまなざしを求めている。
病を治してくれというが、治したらすぐ忘れてしまう人間よりも、「自分は好物のこれを断つから、治して欲しい」というなら、治してあげたいと思うのである。
そういう気持ちもまるで持たないのに、私に神は、何もしてくれなかったという。
昔から、神そして霊魂を、正しく求める人間を疎外してみたり、妨害してみたり。
それでは、人が生きる目的は、何も達成できないばかりが、誰ひとりカルマを抜くことも出来ない。
そうなれば延々、何千年地上にいても、人々のカルマは、永遠に軽くはならない。
誰ひとりとして、人殺しのカルマを、脱することが出来ない。
地上の人間は数千年来、ずーっと戦争してきた。
戦争までいかなくても、さんざんに人を踏みつけてきたに違いない。
人間って、今の自分しかわからないから、「法律にも触れてないし、刑務所に入ってない」だから、死後の世界が仮にあったとしも、自分だけは天国に行くと思ってるよ。
そういった歴史が、人類にはある。
男も女も、同じ。
女であっても、過去は男だったかも知れないし、その逆もある。
となれば、みんな何かやってきたから地上にいる。
霊的カルマの解消
その罪はなんとか抜かないと、あの世に行っても、向上できないのであるから、そうした技を、なんとか広げなければならないに決まっている。
が、それを妨害しておいて、それでも、なおかつ、なぜ自分は救われないのかといって、文句を言っている。
これでは、まさに、真の神が、もし本当にいれば、「そういった者を、まず最初に、地上から消してしまわないと仕方ありませんね」となってしまう。
それがまずいのなら、せめて、人の妨害をしないことである。
ところが人は、それぞれに自由があるのにもかかわらず、他人の人生に干渉したがる。
何か霊的なことを言えば、また、おかしな宗教が出現し、またおかしな信仰に入っていると言う。
大きな、お世話である。
人がどう生きようと、犯罪を犯すのではなければ、他人にとやかく言われる筋合いは、ある訳がない。
昔は神を真剣に求めるということは、立派なことだったけど、今じゃぁ、変人扱いだから。
現実からの逃避とか、心が弱いとか、言われてしまう。
まいったよー。
うっかり、霊魂なんて言葉は言えないんだ。
邪教に入った信者は、まだましである。
それは、方向が間違っているだけだからである。
教義がやや間違っている、また、その教祖が、間違ったことを言っているというだけのことであって、何も信じず、無視している奴よりいいに決まっている。
我々は、霊的な人生の真の目的を「汝の神を愛せよ」と名づける。
その意味はあまりにも深いが、霊的に成長しなければ、真偽はわからない。
人ひとり、「生まれて死ぬまでに、これだけはせよ」ということを、己の守護霊は、全員知っている。
無論、守護の霊魂クラスでは分からんこともいっぱいあるが、とりあえず、より低い人生のテーマくらいは知っている。
その霊感が降りるように生きれば、死後はとりあえず、下がらない。
講演会は、質問形式ではありません。
人には、自由意思というものがあります。
霊魂が言ったように、犯罪や社会倫理の範囲であれば、どう生きようと、他人が、とやかく言うことではないと思います。
霊的なことを求めるのも自由であるし、否定するのも、それぞれの自由だと思います。
だから、僕も自分の考えを、押し付けるつもりはありません。
死後の世界がなければ、人間死んだらそれで終わりだし、もし死後の世界があるなら、霊的な法則にしたがって、生きればいいことです。