あの世で、まともに生きるには

人は必ず死んでしまいますが、人間の「死」とはどのようなものなのでしょうか?



死を霊的な次元、つまり我々霊魂から見ると、さなぎが成虫になるがごとしである。
人は、次の世に脱皮する。
それは、すべてではないが、大多数の人にとって新たな苦しみといえよう。



苦しみっていうことは、何か原因があるのでしょう?





それは、虫がさなぎから成虫になるがごとし。
蚕がマユを破るがごとし。
彼らは、準備ができている。
人は一度も準備していない。
一度もそれを語らず、何も考えず脱皮するが、脱皮した次の身体が完成していない。



次の身体とは、幽体という霊的なあの世で使う身体のことだね。



まるで、成虫が弱っているがごとしである。
今の人達は立派すぎて、科学なるものを信仰しているので、さなぎの中で成長していない。
未だ成虫になる段階ではない。
幼虫の段階でいきなり、さなぎを飛び出してしまっている。
これでは、次の世界で使う身体は全然成長していない。



幽体も成長が必要ということは、適応力みたいなもの?



つまり、耐えられる次元になっていない。
赤ちゃんで言えば、十ヶ月経って生まれれば、まともに育つが、六ヶ月で外に出てしまっては、育たない。
八ヶ月や九ヶ月なら何とかなるかも知れない。
同じことが言える。
十ヶ月であの世に行けば良いに違いない。
しかし、九ヶ月や八ヶ月なら、何とか手を添えてやれば何とかなる。
五ヶ月や六ヶ月でいきなり出てしまっても、まだ人間の赤ちゃんとしての機能を備えていない。
彼らは助からない。





つまり、肉体を持って地上で生活しているうちから、幽体のトレーニングみたいなことをしなければならないということだ。



今の人は、大多数の人が五ヶ月で出てしまう。
誰ひとり、医者の言うことを聞かない。
保健所の言うことも聞かない。
助産婦の言うことも聞かない。
五ヶ月みんな出てしまう。
助けられるわけがない。
しかし、みな言う。「五ヶ月で十分!」だと・・・
それは、確かに自由である。
信仰するのも自由。信じなのも自由。
しかし、死はやはり、あらたなる苦である。
イワシの頭も信心から





よく「信じるものは救われる」っていうけど、それは単なる気休めみたいなもののような気がする。
神や仏を、ただ信じるだけで何かが変化するとは、思えないけどなー。



イワシは実にご神体である。



イワシって魚でしょう。



なぜなら、仏教がどうとか、キリスト教がどうとか、何もわからなくてもイワシを神、つまり神棚に飾り、「これが私にとって神との交流の唯一の手段」と考える。
そして、日々感情をそれによって動かしていれば、それがアンテナになっている。



アンテナということは、それが何かの目印になること?



つまり死んだ時、イワシの頭の信仰者は、普段からイワシを目印として流れてきた別の力を得ている。
これが必ず、上の世界へと向かわせる。



幽体という霊的身体の成長、状態によって死後の世界の位置が決まるっていうことだよね。



例えて言えば、人の肉体は良い事をしても、悪いことをしても、善人でも悪人でも、関係ない。



憎まれっ子世にはびこるって言うよ。



善とか悪とか関係がなく、健康に良い食品を食べて、適度に運動すれば体によい。
良い人でも悪い人でもなし。
悪い人だけ悪くはならない。
霊的な身体も肉体とダブっているから同じ。
あの世では幽体という霊的身体を使用するから、幽体が良いか悪いかは非常に大きな問題である。
そして、幽とは何か?
肉ではない、物質ではない。
物質ではないということは、物的な次元と違うものに振動している。
つまり、どんな馬鹿でも、アホでも、真剣にイワシを信じていると、イワシを目印として幽体に良い刺激、それが入ってくる。



幽体に良い栄養みたいなものだ。



彼ら彼女らは、上に行ける。
ところが、立派な立派な無神論者はイワシを見て笑う。
「こんな原始人が、今時いるなんて、馬鹿もいいとこだ」
しかし、その原始人が、全員神を信仰していて、なんらかの幽的なトレーニングができていたことなど、まるで知らない。



信仰というものは、押し付けであっては意味がないね。
自らが求めてこそ、価値があるんだ。





つまり、さなぎが成虫になるように、人の死は肉体の衰えと共にやってくる。
つまり、特殊な事情で、途中で切れる場合はともかくとして、普通は肉が落ちてゆく。
それに伴って肉ではないものが伸びてくる。
それが脱皮である。
そして、さなぎから成虫になるのだから、肉の衰えと同時に、幽的成長がなければならない。
それが原始人には皆あった。
どんなに知性がなくても、何が善であるかわからなくても、神を信じ、少しずつ幽的になって他界した。
迎えが来たら、無論受け入れた。
我々霊魂は、死に際してこう言う。
新しき身体による再生なればそれも良し。
なれど、どうあっても、たとえ何があっても、最後に一言呼んで欲しい。
呼ばれれば、必ずそばに行く。
それまでに、その呼びかけが届く自分になって欲しい。
違う世界であれば、普通に会話しても届くわけがない。
霊的な距離がある。
「届かない・・・」
しかし、電話すれば通じる。
無線があれば通じる。
死ぬまでに無線をつくって欲しい。
それは、決して超能力や霊能力の開発ではない。
「霊力をつける」そうすれば、必ず恐くなくなる。
人食い人種のいる島に、たった一人で残されたら、みな戸惑うが、そこに別の島へ行く案内人がいたら、何も恐くない。
そっちへ行ける。
霊的なものや、宗教的なものは、信じるも信じないも自由。
誰も干渉できない。
が、人が何と言おうと事実は、いつも一つしかない。
もしも仮に、ひとつ事実が正しければ、すべての理論はそれで終わってしまう。
あらゆる理論がそれを否定しても、千にひとつ、万にひとつ事実があれば、あらゆるものはある。
それがすべてである。


霊言講演は、対話形式ではありません。



大昔の人は、現代人から見ると意識が低いように思われがちですが、果たしてそうなのでしょうか?
現代は、古代の人に比べ知性もあるし、科学や文化が発達しています。
それが決して悪いことではないと思いますが、そういったものが、逆に本来の信仰から遠ざけてしまうのではないでしょうか。
大昔の人は、神や仏、霊魂という見えないものへの確信、つまり霊的な感性のようなものが今の人達に比べると発達していて、もっと人間というものを良く知っていたのかも知れません。
人々が神や仏、信仰、宗教について議論している時、大昔の霊魂はため息をついていることでしょう。