物質の世界で生きる
禊というのは、古事記に記述されているほど昔からあるようだけど、神様が生まれて来たり、読んでも意味がよくわからないし、辞書には「罪やけがれを取るため、川に入って水で洗い清めること」などと書かれているけど、それでは人間の罪やけがれって一体何でしょう?
初めに、何やら人にはわからぬ存在があり、やがて世界が出来たといわれる。
ついには男なる者が生まれ、女なる者が生まれ、残念なことに、ヘビにだまされて楽園を追放される。
その後、人は産みの苦しみと、労働の苦しみを知る。
それは旧約聖書の『創世記』の内容だよね!
この物語に、実は人の霊魂としての正体が隠されている。
なぜなら、仮に男と女の間に子供ができる。
さて、その子供は放っておけば、どう育つか?
もし子供に何の教育もしなかったら、社会性もなく、わがまま放題で、警察に捕まって、まともに生きて行けないよ。
言うまでもない。
動物のごとし、猿と同じ。
なぜなら子供がいたとする。
その子供は、人に当たりちらし、他の子供がおもちゃで遊んでいると、横から取り上げてしまうし、あるいは、お菓子をひとり占めする。
さて、そこで親は、何とか教育しようとする。
しかし、何もしなかったら常に意地悪し。
欲しい物は、他の子供の頭を叩いても、自分の物にしようとする。
常に叩き、常に叩かれ、別の弱い子をまた叩く。
この子はやがて学校へ行く。
が、その時には「時間」に決められてしまう。
朝は決まった時刻に起きないと、学校へ行くことができない。
ところが、もし人が学校なる社会を持っていなければ、時間に縛られる必要はない。
何時まででも、寝ていればそれでいい。
学校というのは、現代の社会においては当たり前だけど、大昔は学校なんてなかったし、時計なんてみんなが持っているようになったのは、最近のことだし、ある意味では不自由なのかもしれないね。
人は、必ず学校へ行かねばならない。嫌いな勉強も、仕方なくやる。
それが義務。
その社会の仕組みに、強引にはめられる。
子供が朝起きない、夜も寝ない。
さて親はどうする?
親は何とか学校に行かせたいし、夜遅くまで起きていたら、次の日は遅刻しちゃうから、最後には怒りだすよ。
親は必死に、社会という仕組みにはめさせようとする。
ところが、子供はどう思っているか?
「なぜ、そんな事をしなければならないのか?」ただ押し付けられていく…
つまり、人が社会を作る限り、子供はどんどんどんどん、心理、心を曇らせていく。
そうした現実があるにも関わらず、人はそれでも社会をつくる。
親は小さい子供の時から「教育!教育!」って頑張ってるけど、まるで学業、勉強のみが最優先になってしまい、人間としての教育という感じではではなく、他の子供には負けたくないという競争ばかりしている感じだけど…
最近の子供は、みんな塾や習いごとで、子供ながらに結構忙しいらしいね。
自分から塾や習いごとに行きたいって、言うみたいだから。
もちろん、みんなと一緒じゃないと除け者になったり、さみしい思いをしてしまうからなのかな~?
僕が子供の時には、遊ぶので忙しかったから、そんな暇はなかったけどね。
本当は元気の良いのが、子供の証拠なんだけど、思いきり飛び回ったりできなくて、ストレスばかり、溜め込んでしまうのだろうね。
かといって、理想論ばかりでは、生きて行けないのが、難しいな~。
人の正体
やがて、そういった社会で育った子供が大きくなり、大人になるとライバル同士となる。
会社の中で、学校で、お互いに相手を引きずり落とす。
それが競争社会というもの。
ここに来て、人は相手に事実上の「呪い」をかける。
わら人形にクギを刺して、夜中に、トントンやっているわけじゃないけど、「負けたくない」とか「スキがあれば、ひきずり下ろしてやろう」そうした、敵対心による強い思いが、念となり、双方の霊的な身体である幽体を、傷つけるたりするんだ。
さて、3人しかスターになれない。
希望者が100人いる。
ライバルは沢山いて、当然、人より上回る努力をしなければならない。
無論、裏では足を引っ張らねばならない。
人は普通に生きると、実は「猿」と同じ。
目標に向かって努力している姿は、美しいものとされているけど、結構ドロドロしたところがあるからね。
一つのものは、他の人には取られたくないのだし、それが単に自分の欲求を満たすためだけに、他人を踏みつけたりするから、ただの虚栄心みたいなものかな?
子供というものは、生まれながらに持っているものも、当然あるだろうけど、親の教育というものが、子供に与える影響は大きいからね。
親の教育が、こうした社会の中で「3人」になる為に必死にレールを敷き、激しい心理の曇らせ方をする。
よって、人は動物でありながら、知性を強く持ち過ぎ、自らを不幸にしている。
その最初の理由が、「アダム」と「エバ(イブ)」最初の初めにある。
なぜ、男から女が創られたというのか?
人は、まず神に似せて、男から創られた。
やがて、男から女ができた。
ところが動物の社会では、メスが出産する。
が、古伝において神は、男から女を創った。
普通に考えれば、女性が子供を出産するけど、こういったところが、神話のよくわからない所だよね~。
地上の社会は、動物の身体。
ところが、霊の社会は、動物になる以前である。
そうであるなら、人が動物になる前の話かもしれない。
実際には、男から女を創ったかどうかは別として、なぜ古人は、ヘビにだまされたとあるのか?
人にだまされることはあっても、ヘビにだまされる人は、世の中にはいないよね。
地上においての逸話と考えるから、チンプンカンプンになってくるのかな?
これは霊魂、霊魂なるものが、実は、人ではないからである。
それでは、「人」とは何か?
人の形をした肉体である。
猿のような身体である。
が、この猿のような身体は、100年も経たないうちに、いなくなってしまう。
誰も、残ってはいない。
順番に子孫を残していくが、本人は、常に死んでゆく。
さて、「人」はこれで終わりだろうか?
残念なことに、終わっていない。
もし仮に霊魂などなく、完全に終わりであれば話は簡単である。
霊魂を語らねば、人を語れない
普通は、人生というと、物質の世界に生まれて死ぬまでを指すけど、本当はもっと長いの?
仮に死後の世界があるとするなら、地上が100年。
死後の世界は、いつまで続くやもしれず、千年続くかもしれない。
万年続くかもしれない。
そうなると「本当の人生はどっちだ?」ということになる。
となれば、霊魂の世界を語らないことには、本当の意味で「人」は語れないとなる。
人間というのは、なかなか霊的なことを理解しにくいから、今、肉体を持ち生きている間のみをとらえているけど、地上に生まれる以前にも、自分があり、死後においても、自分が存在するなら、肉体を持って生きている期間は、ほんの一時かもしれない。
それでは、もしもこの身体が地上で消えてしまったとして、別の世界において同じ形をしているのかどうか?
だって人間は、目に映る自分しか見えないよ。
はたして、同じ形でいるや否や。
霊的には、いま肉体とダブっている幽体という霊的身体があり、この幽体は、肉体と同じ形をしているらしいけど、それは肉体の形や機能が地上で活動しやすい、生活環境に適応した身体だから、自然とそうなっているんだよね。
物質の世界と異なる霊的世界では、物質の食物ではない。
ということは、肉や野菜は食べられない。
とすると、胃袋や腸がいるだろうか?
さて、何にもいらなくなってしまう。
人は動物の身体を用いて、少しずつ変化してきたという。
であるなら、何もいらなくなったら、やがて、変化すると考えざるを得ない。
とすると、物質でない世界である。
「人」は人の形をしているのだろうか?
仮に月に行ったら重力がない。
さて浮かび上がる。
月でさえ、同じ物質の世界でさえ環境が違う。
さて、肉体ではない世界。
同じ環境のわけもなく、手はいるだろうか?
足はいるだろうか?
そうなると、人の形、物質の肉体、これが「昔は猿のようではなかった」とか言って、ずっと前にさかのぼり、どんどんさかのぼると「海の方から来た」とか、いろんな身体までさかのぼる。
人間の肉体の先祖が、猿であったり、また、その先祖が、魚かもしれないし…
動物の体というのは、その環境に適応しやすい、生活しやすい身体に変化するみたいだね。
さて、そこまでさかのぼって、今とは全然違う形をしていた。
とするなら、死後の世界で時間が経って、人の形をしている可能性は、ほぼない。
さて、霊魂の世界で、何千年も生きた。
何万年も生きるかもしれない。
地上においては、たかだか数十年。
となると、本来霊魂の身体はどっちか?
当然、いわゆる人の形ではないことになってしまう。
さて、古典の物語は言う。
「神は己に似せて、男を創られた」
人間は、自分中心に物事を考えているから、神様は、きっと人間のような容姿を想像するけど、いい迷惑だね!
男から女を創るとなれば、物質の世の話ではない。
となると、その形は一体何か?
LGTB~?
これも、お猿の身体だね。
当然、猿のごとし身体とは違う、次元の話しである。
無論、物語なので、そのまま信じる人は誰もいないが、そこにもしかしたら、霊魂達からのアドバイスや、メッセージがあるかもしれない。
とするなら、霊魂が仮に〇(マル)だったとする。
さて、〇が神に似せて創られた。
この○から別の〇ができた。
その別の〇は、ヘビにだまされた。
さて、楽園を追放されてしまった。
つまり、産みの苦しみというのが出産なので、当然物質の身体を持った苦しみ。
さて、楽園を離れ、苦しみを伴う、そういう所に行くことになった。
という時、この物語の奥にある真実は、猿のような身体が、生み出した脳の思考の結果ではないもの。
それでいながら、霊魂という巨大な意識体の一部が、表現されると…
ちょっと難しいな~
創世記には、「善悪を知る木・命の木」が生えていて、神様はアダムに「これらを食べたら死ぬ」と言っておいたのに、ヘビにだまされたエバは善悪を知る木の果実を、アダムと一緒に食べてしまったとあるよね。
ということは、霊魂としての別の未熟な存在が、あえて注意を無視して、自由なる意思により、楽園という自由な世界を離れて、肉体を持つ苦しみを経験したということかな。
人間の本質とは
さて、「人」の本質は何か?
「人」は肉体のみではないのだから、肉の脳では理解できないことになってしまう。
肉体の脳は、動物の変化として進歩してきた。
やがてそれが進化と呼ばれてきた。
ところが、霊魂は動物の身体とは関係がない。
動物の身体の進歩によって、出来た脳などに収まるわけがない。
人間の本当の姿が、猿のようでなかったとしたら、己の正体は、人ではないことになってしまう。
では、どこに正体があるのか?
昔々、伊耶那岐(イザナギ)という神がおられたという物語がある。
さて、日本では神。
これは何か?
無論、禊(みそぎ)をした神。
今度は「古事記」に出てくる、禊をして神様が生まれて来るという話しだよね。
なぜ禊をしたか?
霊魂の世界でけがれた。
それで禊をした。
その結果として「清く高貴な存在になった」とは、どういうことか?
もともと神なのになぜ、けがれた世界に行くのか?
そしてわざわざ汚れてきて、なぜ、禊をするのか?
もし、あの世に行って戻ってきたのなら、どんな身体で行ったのだろう。
肉体では、あの世に行けず、霊的な身体であの世に行って、また戻ってきたのなら、禊とは何か?
肉体の物質的な汚れだけなら、単に川に入って洗い落せば良いけど、禊というのは、そういったことではなく、人間の霊的な部分の話しなんだから、霊的な罪やけがれを清めることが禊の意味なんだね。
つまり、今回の集会のように、禊の次伝まで行った人がいるので、こういった会場では、少し霊的なレベルが上がってくる。
その訳は、禊が、実は己の正体。
この正体を、よみがえらせる為の技術だからといえる。
イザナギは、あの世に行って、つまり霊的な身体で、幽質という霊的な世界でけがれた。
そして、地上の肉体に入った。
が、幽体という霊的身体は汚い。
さて、そこで禊をする。
そこで、やったこと。
まず、衣服を脱いだ。
衣服を脱いだら、沢山の神様がでてきた。
が、高貴な神は、出てこない。
そして川に入って、いろいろ洗ったところ、高貴な、高貴な神が産まれた。
「天照大神とか、三神」これは何か?
禊をすると、自分でもおどろくほど、高貴な存在が出てきた。
己の分身として。
なぜなら、子供だといいながら、自分一人で産んでいる。
実は、分身ともいえる。
それが「太陽の神」であったり、「力の神」であったりしている。
禊とは、霊的な罪やけがれを清めるだけにとどまらず、自分自身の高貴な部分をも、表現してしまうんだ。
「人は神に似せて創られた」というのは、肉体的な容姿なんかじゃなくて、霊的なメカニズムのようなものか。
人間の本質的部分は、みな同じなのだから、人間誰でも、禊法を真面目に行なえば、こういったことが、可能になるということだね。
つまり禊法における次伝というのは、自分の肉の脳になど到底はまらない、霊魂としての本質的な力。
この力を、どこまで自分の中で表現し得たかどうか?
それが次伝であった。
今回の禊法の合宿は、かなり上出来であった。
つまり初伝の段階では、まだまだ「服を脱ぐ間に汚いものがたくさん出た」このレベル。
もちろん初伝だけでも力は出るものの、次伝になると、この段階ですでに、己の中の高貴なる光、これがすでに輝き始める人がかなりいる。
こんな話しを聞くと、次伝あたりに参加して、うぬぼれて、道を外してしまう人がいるけど、まだまだ次伝レベルなんだから、気をつけないといけないね。
今回は、まだ未熟な部分。
つまり汚い部分も完璧には出し切れてはいないけれども、これは意識というものなので、物語のように単純にはいくものではない。
時間がかかるのは当然である。
しかし、良かったのは、禊によってしか出てこないといわれる高貴な光。
「天を照らす神」「力の神」「闇の支配者」それら全てを表現する。
その部分の輝きが、確実に動いた。
これは大きな成果といえる。
今回の次伝合宿で、正直ここまで行くとは思わなかった。
参加者は誰も分からないだろうが、確実に力が出てきた。
これは、人の正体といえるもの。
禊の真髄
人間って不思議だね。
禊をすると、高貴な部分が出て来るんだ。
つまり、アダムとエバで言えばアダム。
昔は、単純に男中心であったに過ぎず、男の方が偉かった。
表現を変えれば、高級な我が、別の我を産み、別の未熟な我は、邪悪なヘビにだまされた。
その結果、人は物質の世界で、肉体を着るに至った。
が、人は禊により、未熟な部分を脱ぎ捨てた。
そして「アダム」を復活させる。
これが禊である。
神話というものは日本と西洋の違いもあるし、旧約聖書の時代は、やはり男尊女卑で、男の方が偉くて、当時の人々にとって、それが自然に馴染むし、また、倫理や道徳も、含まれていたりするでしょう。
そういった時代背景にも影響されて、語られていたりするんだね。
イエス・キリストは言われた。
ヨハネなる者が、「あなたこそ、聖霊を与える者にふさわしい方」と言ったが、イエスは答えた。
「あくまでも、まず自分が禊を受ける」
それは、なぜか?
どんなに高貴な魂も、肉体、動物の生殖に入ってしまったら、必ずけがれがある。
そのため、まず物質の身体に入ったことによる己のけがれを、水によって清める。
そして、やがて高貴なる師は、「聖霊による禊」を与えられた。
それが、西洋における「アダム」の復活。
これが禊である。
聖書では、「バプテスマ」と呼ばれているものが、日本の「禊法」と同じなんだね。
日本においては、イザナギの神が、三柱の一番尊い神を産まれた。
これこそが、唯一神、至上の神が直接産むといわれる、神霊の光。
その種が、次伝ですでに現れた。
これは、何を意味しているのか?
言うまでもなく、参加者の質が高かったのか?
あるいは、指導者の質が良かったか?
あるいは、環境が良かったか?
いずれにせよ、ピラミッドでいえば、頂点に高貴なる光が集まるとき、地上にその霊的な光が流れる。
それを受け取る時、人は物質の身体でありながら、己の正体を知る。
やがて、肉体を捨てたとき、当然、その魂の光、輝く幽体に相応しい世界へと入る。
ピラミッドというのは、地上における霊的なアンテナだよね。
それが本当の力を持つと、物質の世界において、高い霊的なエネルギーが流れるわけか。
地上で生きている間に、高貴な霊的エネルギーを受けて、幽体に力をつけると、必然的に死後は、その幽体に相応しい世界に行くんだね。
物質の世界で生きることは、霊魂としての退化
ところがピラミッドに力がない時、人は、肉体の本性に従って生きる。
霊的な輝きがないと、物質の身体である肉体に振り回されてしまうのか。
肉体の本性は、何か?
言うまでもなく、ただの競争である。
強弱である。
弱肉強食、それが肉体の本質。
つまり原始においては、腕力が猿のような王様をつくり、臣下を従え、奴隷をつくっていく。
この王が、やがてまた交代し、没落していく。
これを何十回となく繰り返す。
現代においてはどうか?
民主的になって、みんな平等って感じだよ。
表向きはね…
社会は変化し、腕力というものが、段々通用しなくなった。
次は、頭、脳。
頭を盛んに使い、男でも女でも、上に立てるようになった。
これも実は、腕の力が頭の力に変化したに過ぎず、やはり強弱。
「人」は地上で肉体を持って生きるから、必ず強弱で社会をつくってきた。
これからも、同じ。
大昔の親は、子供に、腕力をつける教育をしたかもしれないね。
現代の人にしてみれば、「昔は、何と野蛮な社会だったのか」と思うけど、今だって別の形の戦いをしているようだし。
受験戦争なんて言われるくらいなんだから。
その中で点数の良い人が上になって、悪い人が下になってしまうんだ。
それは肉の本性であるし、霊魂としては未熟な部分である。
なぜなら、霊魂は強弱で上下の社会は作らない。
霊魂の世界はそれぞれ、質の高さ、それによって、相応しい者が相応しく生きているにすぎず、その差は何もない。
もし霊魂が、物質の世界に生まれることがなくて、霊魂の世界で生き続けているとしたら、そっちの方が、良かったのかもしれないね。
霊魂の世界は、食べなくても寝なくて良いし、仕事をする必要もしないし、子供も育てなくてもいいわけだから。
その分、人間同士のような争いは、ないことになるよ。
それでも、地上に生まれたことによる様々な経験や記憶、そうした思いを引きずり、霊的世界に入ることになるから、霊的世界も様変わりしちゃうんだ。
地獄も天国も、実は己がそこに相応しいから行くに過ぎず、誰かが判断して、落としたわけでも、上げたわけでもない。
単純に、その魂と、その幽体という身体に相応しい所に、己が居やすいに過ぎず、となると、強弱の社会は地上の基準。
じゃあ、えん魔様なんて、いないんだ。
ということは、今肉体とダブっている幽体の質で行くべき世界が決まるとなれば、この社会で、幽体に悪い影響ばかり与えているのなら、もうすでに、行き先が決まっているようなものだね。
古典にある通り、人はヘビにだまされて、強弱の世界に入ってしまった。
その為に、人は、常に人を攻撃する。
そして必ず、相手の幽体をボロボロにし、やがてみんなで不幸になる。
そして人は、人を殺し、そしてさらに恨みが強くなる。
地上に生まれて、生きるということは、霊魂としてはマイナス部分をたくさんつくってしまうわけだ。
親は、子供の為に、良かれと思って塾に入れて、良かれと思って、エリート学校へ進学させたのに、子供は、たくさん勉強せざるを得なく、親も当然、ついていけないと言って、こぼしている。
親としては、とりあえずは、良い学校に入れば、良い仕事につける。
そうすれば、たくさんの収入が得られて、幸福になると考えるからなんだけど…
かといって、親の考えが全てではないし、子供が、親の言う通りにならないのが常だし…
こんなことで、親子が対立して、お互いの幽体を傷つけてしまったら、何にもならないよ。
社会の抑圧と過去世の心理
親は、どうして良いのか分からない。
なぜか?
子供の自由や幸福の前に先に、社会があった。
人は、好んで憲法を作ってもらったのではない。
それなのに生まれた時に、もう憲法なるものがあって、義務が最初から決まっている。
社会で生きる以上、「自分は、そんな義務に従う気はない」と言っても通用しない。
先に義務があり、生まれて何の意思表示もしないのに、社会によって強引に決められてしまう。
これに、納得できるわけがない。
「信号が、赤だ!オレは赤が出る方が良いと思う」
「なぜ赤で止まる?」
「嫌だ!」
と思うが、社会はそれを許さない。
そんなことを言っていたら「牢屋に入れられて、必ず不幸になる」だから叩き込む。
親は必死に、叩き込む。
しかし、その為に、子供は激しい呪いを出す。
親に対して、社会に対して。
その呪いが当然、相手の霊魂としての身体を、ボロボロにしていく。
死ぬまでに、みんな不幸。
不幸にならない訳がない。
親がしっかり教育しないと、猿のまんまだし、教育しようとすると、呪いを出すのでは、親としては、本当に困ってしまうね。
たとえば強者になったり、金持ちになったとして、仮に同じような能力があったにもかかわわらず、運が悪くて失敗した者はどう思うか?
必ずその人が、うらやましいし、ひがむ。
その人は、どうなるか?
憎まれたり、恨まれたりして、幽体が傷ついたりして、霊的に不調になったりすることも考えらえる。
この子が親となり、子供のまた子供が親になると、「アレ?産まれた時から手が動かない。なぜなんだ!」
それは当たり前。
親が、そうした幽的な状況を、持っているから。
産まれた子供に間気もないし、当たり前でないか!
間気とは、肉体と幽体という霊的身体を、結びつけるものでしょう。
親が霊的に不調であると、そうした不調が、その子供に影響すると聞いているけど。
じゃあ、なぜ親がそういう風になったか?
その親に、霊的な気、幽気に異常があった。
なぜか?
恨まれてたから。
当たり前ではないか!
これを仏教では、因縁などという。
霊的に見れば、当然の話。
まるで当たり前。
なぜか?
社会があるから。
親も良かれと思って、教育するんだけどね。
親は子供が憎くて、子供に強制する訳ではない。
愛情を持って、言っているつもり。
ところが子供は、そのように受け取らない。
子供は、強引に親の言いなりにされていく。
なぜなら、中学になったら「私は作家になりたい」、「私は芸能人になりたい」と、学校は辞めてしまう。
しかし、親は、その子の将来がどうなるか、だいたい気がついている。
そう言って東京に出て来て、あげくの果てに、首を吊ることになる。
その可能性が、ずいぶん高い。
「世の中、お前が考えているほど甘くない」と思って必ず親は反対する。
そこで、子供の心は、激しく痛む。
親なら、自分の子供に、才能がないと思えば、反対するよ。
もっと激しく、痛む者もいる。
生まれる以前に、過去世があり、その過去において、親との間に、何らかの激しい衝突があった。
とすると、その時の心理が、この時とばかりに、グ~っと浮かび上がって来る。
やがて親を殺したくなる。
生まれて来る前にも、この世に生まれて、親との対立、抑圧やうっ積したものがあったりすると、その思いに一層拍車をかけてしまうんだね。
現代社会は、足の引っ張り合い
人間は、不幸になる為に生きている。
そこで、仏教は言う。
「四苦八苦」どうやって、救われようか?
そこで、心を変えよう。
ところが、本当は心を変えても、救われない。
心は肉体の脳が、生み出したもの。
少なくとも、その脳によって、しか表現されていない。
その本質が、いかに深くても、人が脳を使わず心を表現できない。
となれば、やがては必ず肉体の限界、いつか壁に、当たってしまう。
社会が変わらないのに、心だけ変えたら、落ちこぼれてしまう。
心というのは、人間の本質的な部分ではないけれども、人間は複雑で、深い意識も心に反映してくるのだから、こういった心理を、表面的なところで抑えつけようとしても、不満は溜まる一方だし、かえって苦しくなってしまうんじゃないかな~?
食べることさえ不自由な時代なら、「欲を捨てて、現状に満足しないさい」という言葉も説得力があるかもしれないけど…
現代のような、社会の中で生きる為には、とにかく黙っていたって、税金や年金を払うのが国民の義務だし、一人で心を変えたつもりで、すましていても、世の中の流れに逆らうばかりで、生きて行けないよ。
「受験戦争をやめなさい。心の安定を失ってまで、勉強して何になる!」
「人には、いろんな道があります。」
そう言っているうちに、就職先が一つもなくなった。
「さてどうやって、責任を取ってくれる!」
「オレは、飯を食えんぞ!」
「飯は食わねど構わん。座禅しましょう」
さて、子供ができました。
「子供にご飯をやらないと」
自分は食べなくても、良いけども。
「さて、どうしましょう?」
「出家しなさい。子供も一緒に預かります」
さて、全員出家して、誰が飯を作る!
誰が、誰が、服を作ってくれるのか!
地上の人間は、甘くない。
食を得ねば、生きられない。
その為には、社会を作らざるをえない。
その社会は、必ず強弱で出来ている。
その中で生きようと思ったら、強弱の社会で、己が負けてばっかりではいられない。
そうしたら、全員で死後は、だんだん、だんだん、ボロボロの幽体にふさわしい世界に入りやすくなる。
普通に生きようとすれば、幽体はボロボロになるし、かといって社会を無視したらまともに生きられない。
であるなら、そういった現状を踏まえて、どう生きれば良いかをしっかり考えることが、現代人のテーマだね。
原始は良かった。ただ腕力の世界だった。
下のほうに大勢でいれば、大したことはなかった。
昔は、奴隷は、一生かかっても奴隷。
どれだけ努力しても、奴隷でしかない。
身分はきちんと定まっていたし、女はどれだけ頑張っても、男にはなれない。
しかし、今は違う。
万人が平等。
万人が、権力者になる。
誰でも総理大臣になりうる。
誰でも大富豪になれる。
どんな貧乏人でも、どんな金持ちも。
昔、バブルで景気が良かった頃、アメリカンドリームなんて言葉が流行ったね。
みんなで、アメリカンドリームなんて言ったって、わずかな人が勝ち得たものだったし。
全員で、競争する社会。
これは、全員を地獄へ落とす社会を、作ってしまったがごとし。
昔の社会なら、ここまでの競争もなかった。
現代は違う。
生まれてから死ぬまで、他人の子供に負けてはならない。
あの人の子供だけには、絶対負けたくない。
会社においては、負ければ、即住宅ローンを払えないことを意味する。
よって、どうしても戦うしかない。
禊の意味、力を知る
こういった社会の中では、人は気がついたら、霊魂としての光は、一つもなくなっている。
あるのは、ただヘビにだまされるような、未熟でみにくい己だけ。
それで、あの世に行って、天国へ入ろうなどと、バカな考えを持ってる者がいるから、笑ってしまう。
この状態で「神様、仏様」といくら祈ったからといって、それで天国行ける訳もなく、それで死ねば、その幽体に相応しい世界にしか、入れない。
地上においての生き方がどうあれ、肉体を失えば、残るのは霊的な身体なのだから、全く異なる世界では、そこにある法則に従って生きるしかないんだよね。
本当は、お互いの幽体を、傷つけたりしないような社会になるのが理想だけど、そんなの待っていたら人生が終わってしまうし、死んでから社会のせいにしたって、幽体が健全になるわけでもなく、とにかく多くの人が、霊的真実を求めて欲しいよ。
上の方の、いわば神々しい世界に、ボロボロの幽体で、どう入ろうにも、いわば、空気のない世界へ行って、空気がなければ、生きられない人間が、そこに行って、生きて行こうと言っているようなもの。
不可能。
自然と空気がある世界へ、行ってしまう。
そうでないと生きられない。
単にそれだけのこと。
皆、不幸になる。
それを予知したがごとく、日本の古典には、イザナギが禊をしたとある。
つまり、こうした社会になってしまうことは、だいたい予想がついていたんだね。
本当の意味で、人間が救われるために必要なのが、禊というわけだ。
禊を行なうと、「天の神」「力の神」こうした尊い神を産む。
この「力の神」が、やがて地上の人を救う。
妖怪を退治する。
ということは、救世主なるものが、どっからかやって来て、人々を救ってくれるはずもなく、自分を救うのは、やはり自分ということだね。
でも、妖怪って誰のこと?
妖怪は勿論、言うまでなく人間達と、その霊魂達。
その背後で暗躍する霊魂団である。
当然のことながら。
人間の霊的進歩の妨げになるような存在が、妖怪というわけか。
禊の意味が分かる時が来るまで、古伝は隠される。
それが、古典というもの。
政治家が何人集まって考えたとて、本質は、確実に表現されている。
その本質。
それが川。
なぜ川だったのか?
どうしても禊は、川でなければならなかった。
川に入る前から、汚いものをどんどん脱ぎ捨てているのに、最後はやっぱり川だった。
それは、なぜか?
そこに秘密がある。
それがわかるのは中伝。
中伝は神々の領域に入る。
今回出来が良かったので、中伝は更にレベルが上がると思われる。
気がつくと、霊魂としての力がどんどん強くなり、やがて地上の妖怪を倒す力もつくだろう。
たとえば人間同士であれば、相手が見えるし、殴ったりも出来るけど、相手は霊魂なのだから手ごわいけど。
どうやって倒すのかな~?
相手を酒で酔わせて、切ってしまう。
酒とは何か?
これも中伝の領域である。
禊法の次伝合宿において「幽の気合」をやったおかげで、幽体を流れる気が充分に、十分に駆け巡るようになっている。
これがあれば、魂は確実に進化する。
なぜなら、幽気というものが自在に流れて動くということは、肉の身体に限定されていながら、霊魂としての身体、本来の力を、呼び戻しているといえるからである。
つまり肉体を持ちながら、幽としての本来の力。
これを強くしたということを意味する。
この力があって初めて除霊もできるし、祓いも可能なのである。
肉体を持った人間が、霊的トレーニングを行なうと、霊魂と対等の力を持てるようになるんだ。
霊的な力をつけないと、除霊や祓いは出来ないのだから、単なる霊感とは関係ないんだね。
ハンデを克服するための霊力
この力がないのに、除霊したと言って、盛んに錯覚している人達はどうしようもない。
言うまでもなく、世に言う霊能力者の除霊は、本当の除霊ではないことは、今更いうまでもない。
「幽的な力」これをトレーニングせずして、肉体を持たない自由な霊魂と、対等に勝負ができる訳がない。
いわば肉体を所持する人間は、よろいを着ているようなもの。
それも、手一本も動かせない程重いよろい。
相手は自由自在の身体。
相手は走り回っているのに、よろいを着ていては、少しも動けない。
これでまともに、霊魂を除霊できるなどそんな訳がない。
ちまたの霊能者の中には、霊魂と話しをして説得したり、諭らせたり、霊魂を、導いてやるなんて言う人もいるけど、ちゃんと話しが通じているのか、それさえ疑問だし。
もともと霊魂から見れば、人間なんて、無知な赤ん坊のようなものだから、赤ん坊の言うことを聞くなんて思えないし、人間が霊魂をどうやって導いてあげるのか??
かなりあやしいね~
例えば、誰かを恨んでいる霊魂がいて、人間を不幸にする為には、人間の身体の中に入っていたら出来ない。
こっちから自動車が来ている。
それに強引に当てようとするのであれば、外部から誘導するしかない。
そういう恐ろしい霊魂が、除霊する時だけ、人間の肉体内に入ってくれる訳がない。
「アホか!」
すぐに消えてしまう。
その場にいてくれる訳がない。
バカげている。
幽的な力がないとは、そういうこと。
幽力があれば、そんな事は起きない。
じゃぁ、どうすれば良いの?
もし、霊魂がそこにいなければ、側に寄れなくする対策をすれば良い。
中にもし本当に入っているのなら、追い出せばそれで良い。
が、入っていたら、そうそう悪さは出来ないものである。
霊的な不調は起きたとしても、車とぶつかることを仕掛けることは、霊魂は出来ないのである。
つまり何も知らない。
こうした輩がテレビに盛んに出るために、世の中がどんどん悪くなる。
自称霊能者が山のように出て、それに援助する悪い霊魂が、山のように地上にやってくる。
これでは、どうしようもない。
それら全てを祓う力。
それがピラミッド。
日本では、契約の山である。
霊言講演は、対話形式ではありません。
禊とは行為、技法なのです。
自ら求め行なうことにより、それが真の意味での救いにつながるようです。
地上で暮らす人々の考える救いは、「病気や災難から逃れたい」というものであったり、「より生活を良くしたい」というような、自分にとって都合の良い欲求ばかりに向いているようです。
もちろん、「幸せになりたい」という思いは当然であるし、好んで不幸を求めているわけではありません。
ところが死後の世界においては、不幸を嘆く霊魂がたくさんいるようです。
その不幸は、地上の生活から始まったと言えます。
もともと霊魂でありながら、物質の世界での幸福ばかりを求めた結果なのかも知れません。
人には過去世というものがあり、何度も地上に再生しています。
今更、欲を捨ててみたり、心を正しても、大きな視点から見た自分の変化は、あまり期待することが出来ません。
唯一、こうした禊という技法が、神霊から流れる力を受けることで、人間の本質的部分に変化を与える手段のようです。