霊力・霊的パワー

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霊能力と霊的な力

まちゃたま

本当の霊的な力とは、何でしょうか?

霊魂

人の世は、物理上の法則をのみ知り、その裏側にある本質を知らぬ。

特にこの頃は、おろかにも、宗教と麻薬なるものを共にするがごとし。

すべてを同列に見る。

つねに、薬物は皮膚や口から伝えられ、肉体の脳影響を及ぼすことにより、人の表にあらわれたる心に作用する。

一方、世の中を騒がせる霊的な能力のひとつ、霊視などをいう方々は、それと同様に表の心のマヒをもって、裏の何かを引き出さんとする。

それが、霊的能力の強化と誤解している。

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まちゃたま

薬物を飲んで神秘体験を求める人達、どっかで聞いたことあるなー?

霊魂

 つまり、表面意識と呼ばれる心は、普通にしていると霊的な感覚がない。

そこで、夢を見るがごとし。

何やら意識をボワッとさせたら、なにかしら霊的な力がつくに違いないと考える。

そこで、肉体の力を落さんとする。

その訳は、たとえば、肉、魚を避け、菜食にすれば、突如として霊能力がつくと考える。

それもこれも、ただひたすら座禅を行うがごとし。

一定の状態にただひたすら置けば、なんとなく意識がもうろうとする。

なんとなく肉の力が下がり、そのときに霊的な何かが起きると考える。

そうした霊能力と麻薬は同じである。

まちゃたま

昔から難行苦行っていうけど、肉体をいじめると、何かを得られるような気もするけど、酔っ払いのうわ言みたいなものか。

霊魂

つまり、なるべく表面意識と呼ばれる意識を弱くし、べつのものを蘇らせようとしている。

が、それはもちろん非合理とも言えない。

つまり、それからでも霊能力は出る。

まちゃたま

ほら、やっぱり出るんじゃないの。

霊魂

ただ、それは霊的な能力の比較的目立つもの。

つまり、見える、聞こえるといった部門であり、その本質とも言える背後の霊力ではない。

ここに問題がある。

つまり、霊的な本質ともいえようパワーは、肉を食べようと、魚を食べようと、何も食べまいと、無関係である。

物質界の法則でないから、霊的世界の法則なのだから、何を食べようと表面の肉体がどうあれ、この頭脳が落ちたとしても、無関係に霊的なパワーは強いものは強く、弱いものは弱い。

まちゃたま

なんとなく霊能力を持っているという人は、霊的なパワーがあると思ったけど、そうではないんだね。

霊魂

 常に人、霊能力者を見るにあたり、その見せかけの現象にだまされる。

つまり、霊視ごとしは、その正邪はかなり見分けにくい。

そして、仮に、霊的な何かを見たとしても、霊能力ではあっても、霊力、霊的パワーが強いというわけでもない。

つねに、麻薬ごとしを常用し、神秘体験を持ちたがる。

知りたい、その気持ちは過度な瞑想や過度な座禅、過度な山歩きを用いて、それを持ちて霊力に至ると錯覚する。

それは霊能力と呼ばれるいわゆる技術である。

例えて言えば、プロレスラーが投げたり倒したり、蹴ったりもするが、殴る技があっても体力がないがごとし。

それが巷でいう麻薬的霊能力である。

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霊的パワーをつける

霊魂

霊力は、基礎の相応しい体力をいう。

よって、投げ方がわからない、絞め方がわからない、蹴り方がわからないから、何も出来ないと錯覚しているが、殴り方のひとつも覚えれば、山ほど技をもっていても、体力ゼロの人間に対して、一撃で倒せる。

それが霊力。

まちゃたま

なよなよのプロレスファンと、金太郎さんが闘うようなものか。

じゃぁ、霊能力などもっていなくても、霊力のある人がいることだね。

霊魂

したがって、見えたり聞こえはしないから、霊能力がないとは言えても、霊力はあることがある。

少し、回路が開けば、そのまま霊力が開く。

霊能者は、見える、聞こえると威張っていても、基礎となる力がなければ、一撃で踏みつぶされる。

我らは、言う。

人、皆、霊能力の本質も知らず、霊力の本当の姿も、何も気がつかない。

気がつくはずがない。

人、皆、霊魂を信じる者が、おのれに知覚がないのだから、誤った偽りの霊能力者の言葉を、ただうのみにするしかない。

信じない者は、はじめから何も信じていない。

したがって、一切、何ひとつ解決はしない。

また、物理的な科学がごとしは、霊魂を発見するわけがない。

原子だの、分子などと盛んに論じている次元で、それらと違う原理がわかるはずもなく、まして、オーラを鏡とか、テレビとかに映すなどと、愚かしいことを言っている。

バカも休み休み言って欲しい。

物的でないものが、カメラに写るわけがない。

写るからには、物的なところまで何らかの作用で下がったとか、何らかの次元に、作用してはじめて可能になる。

よって、そうしたことをプロフェッショナルに起こす霊魂団がいて、少し可能になる。

つねに、オーラがテレビで映るわけもなく、それを映したごとしに錯覚する者や、意識的に詐欺するものまで、山ほどいる。

まちゃたま

 偽者は多いけど、中には本物があるんだ。

簡単にテレビに映っていたら、今ごろ、霊魂がいるとかいないとか、議論していないよね。

霊魂

どちらにしても、麻薬と宗教と、霊能力が、同じ次元にいるこの時勢においては、霊的パワーも知る由もない。

霊力とは、いわば運動でいう体力のごとし。

誰でも、なければいけない。

殴る蹴るの技は知らなくても、体力はつけねばならない。

見えるだの聞こえるという技はなくても、霊的な力を持たないと、人は正しく生きられない。

ということは、霊力の不足は、いわば死後の世界を、暗くすることにもつながろう。

イコールと言わないが、強い関連がある。

体力がなければ、何か行おうとしても行ないがたい。

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まちゃたま

体が健康でなかったり、不自由だとかわいそう。

よく、頭は悪くても五体満足ならって言うね。

僕のことだ?

霊魂

 それと同じ。

霊的なパワーがないと、死後の世界も下がりやすいし、何よりこの世に生まれて、やるべきことをやらずに、去っていかねばならなくなる。

なぜなら、人は生まれてから死ぬまでに、おのれ自身の意識の奥には、様々な抑圧があり、願望なり、衝動なりが埋もれている。

それが、大人になるに従い出てくる。

その結果、誘拐する者も出てくるだろうし、殺される者も中にはいる。

まちゃたま

子供を誘拐した人を見て、やるべきことをやっているという感じはしないよ。

霊魂

人の意識の中には、強い願望や衝動がある。

その衝動が、いつか必ずわき起こってきて、それが出てしまうと、もう取り返しがつかない。

気がついた時には、墓の中になる。

まちゃたま

人生、長いようで短いからね。

Image by Gábor Bejó from Pixabay

霊的パワーにより、自分を改善する

霊魂

人の人生において実際上、事故というのがあるが、それとは別に、必然の不幸がある。

それがわかる。

まちゃたま

エッ、どんなふうに?

霊魂

なぜなら、どう見ても、この人の願望には、夫なら夫を、強い呪いのごとし念で、将来首を絞めるがごとしになるという、抑圧された心理が15、16歳の時にすでにある女性は、結婚すると男が死ぬ。

30を過ぎた頃には、まず、男はこの世にいない。

つまり、そうした強い願望がなぜあるのかは、幼児体験、我々は過去からの体験を考えるが、一般の方には、小さい時の体験だけを考えるとよい。

まちゃたま

小さい時に体験したことは、大人になっても、それをずっと引きずっているという話しは聞いたことがある。

霊魂

それらが、将来必ず出てくる。

出てきて何かにつけて別の思いを発していると、相手の男は、なんとなく嫌になる。

なんとなく、力が抜けていく。

なんとなく、病気がちになる。

そして死ぬ。

Image by Andrew Martin from Pixabay
まちゃたま

まさに、魔性の女っていうやつだ。

人の想いは、力を持っているということだね。

霊魂

 我らから見ると、必然であって、この女性は、必ず三度別れる。

全部、死に別れと思う。

しかし、そんな不吉なことを言うと、何とか商法と思われがちなので言わない。

「あなたは、幸せな結婚をする。」と言うと、ごほうびが入る。

が、考えてみればわかるように、まず間違いなくそうなる。

それは、そうした意識があるからで、それらがいつか無意識のうちに、男なら男の意識を、攻撃するためである。

子供に辛く当たっても、本人はわからない。

しかし、本人は気がつけないのである。

なぜなら、それが普通の意識状態だからである。

自然に内からこみ上げてきて、現れてくる心情による行為は、他の人から見ると異常であっても、本人には全く正常である。

よって、「私のような立派な妻はいない」という。

が、こちらから見ると、「この人と一緒にいると、まず間違いなく、この夫は将来ダメになる」とわかる。

まちゃたま

わかっても、どうしようもないの?

霊魂

つまり、霊的パワーというのは、霊的な何かを持っているこの人間が、物質的な肉体や、脳を持って活動する。

その背後に働くいろいろな霊的なもの、それを、おのれ自身の力で変えてゆき、確実に上に向けて伸ばしていく。

こうしたパワーのことでもある。

よって、10代のうちにそうした、我々は霊的カルマとか様々に呼んでいるが、そういった隠れた心情等を読み取ると、それを改善しやすい。

我々は、トレーニングなどをしている。

Image by Wälz from Pixabay

人は幸福になるために、生まれて来たのではない

霊魂

 つまり、そうしたトレーニングをすることによって、自分自身の霊的な部分を変えていけば、将来必ず、人生も運命も変わってしまう。

無論、だからと言って、幸福になれるというものではない。

まちゃたま

 運命が変わるなら、幸福になれるんじゃないの?

不幸になるの?

霊魂

我らは、いつも言っているが、人は幸福になるためになど、絶対生まれて来てはいない。

幸福など絶対になれない。

これが、普遍の原則。

そうであるのに、幸福になれるというから間違える。

霊魂から見ると、地上の人は死ぬことを恐れていても、霊魂達はもともと死んでいる。

なにも怖くない。

何がそんなに恐れているのか、よくわからない。

つまり、自分が地上にいた時は、確かに死ぬのが怖かった。

しかし、死んで長くなると、それが当たり前だから、いわば、小学校を出て、中学校へ行くだけだから、全然、恐れることなどないことを知っている。

「そんなに役に立たない人生なら、まあ、いい加減死んででもらおうか」このくらいの感覚である。

まちゃたま

そんな殺生な~。

霊魂

よく、守護霊なる方は、どんな場合でも、自分の人生を救ってくれて、命を助けて下さったと言う。

あんなバカげたことは、絶対にない。

仮に、ここいる誰かが、明日、誰かを誘拐して、殺してしまおうかということを、いま思っていたとする。

霊魂が、それを見抜いたとする。

「何とかそういったことをさせないように、今日死んでもらった方がいいかな?」

「死んでくれたほうが罪が軽くなるが…」と考える。

なぜか世にいう守護霊さんとやらは、そこでその人の人生を、命を救ってしまう。

そのために新しい不幸が生まれる。

まちゃたま

地上に生きているうちは、1日でも長く生きることを考えてしまうけどね。

死んでしまえば、「ちょっと早く死んじゃった」

そんな感じかなー?

Image by Dimitris Vetsikas from Pixabay
霊魂

例えば、ヒトラーなる人がいて、将来、どれだけの命を奪うかわからない。

守護の霊魂が、そろそろ病死させようと、真剣に考えている。

人の世では、まだ起こってもいない犯罪を、裁くことは絶対にできない。

死後の世界は、そうではない。

人が生きていること自体、何の価値も考えていない。

つまり、生まれた以上は死ぬまでに、どう生きれば一番霊的に良いのか、それを考えている。

受験に落ちるべきなら落ちてもらった方が良いし、受かるべきなら受かってもらいたいし、苦しむべきなら、苦しめた方が良いのだし、何が一番良いのかを考えているのだから、価値がなければ、さっさと死んでもらって、一向に構わない。

人が生きる価値

まちゃたま

 人が生きる価値は、自分の幸福をつかむことでしょう?

霊魂

高貴な霊魂は、地上の人達が幸福になれるようなことは、絶対に思わない。

考えて見ればわかる通り、みんなが幸福になることはありえない。

誰かが、ダイヤモンドをキラキラさせていると、誰かが側で仕えているはずである。

召使を、たくさん持っていると幸福であるが、その召使達は、幸福ではない。

全員、召使をつけたいが、じゃあ誰が召使になる。

誰かの不幸がなければ、絶対に幸福はなくなる。

Image by Engin Akyurt from Pixabay
まちゃたま

大学の受験発表の場面を見ていると、大喜びしている人のとなりで、泣いている人がいるよ。

もし、喜んでいる人が不合格になれば、となりで泣いている人が合格していたかもしれない。

たとえ1点の差であっても、決まった人数しか合格できないのだから。

霊魂

つまり、物質の世において、全く平等には絶対ならないのだから、そこに幸、不幸があるのは当然である。

幸、不幸の基準を、そういった方面のみ求めれば、絶対に理想社会はない。

むしろ、人に仕えて奴隷のごとき生活をしていても、それが喜びでないことには、絶対に平等ではないのだから。

まちゃたま

誰だって、自分から奴隷になりたい人はいないよ。

待てよ、ムチで叩かれてて、喜んでいる人を見たことがある。

あれはSMの世界か。

変なこと言って、すみません。

霊魂

そこで、霊魂達は考える。

霊的パワーを持って、いま奴隷でいても将来奴隷にはならない。

彼らを見返してやれ、それはそれで良い。

しかし、あなたが、ここに生きている。

その意味は、そんな相手を打ち負かすとか、おのれが上になるとか、下にいることを満足するとか、そんな次元ではない。

人は生まれて来て死ぬまでに、霊魂としてするべきことがある。

それを、行ってくれれば良い。

まちゃたま

 霊魂としてするべきことってどんなこと?

考えてもわからないよー。

霊魂

仮に、もしもイエスキリストなる方が現れ、その方の弟子として、何かしなければならない、そう思って、わざわざ生まれて来た人がいるとする。

もしもその人が、イエスに巡り会えずに、大富豪になろうと、ナイチンゲールななろうと、何の使命もない。

守護の霊魂は、一切タッチしない。

どんな立派なことをしてくれても、意味がない。

その人が、生まれた意味ではないからである。

もしも、その人がいれば、イエスは、はりつけにならなかったかも知れない。

しかし、その人がいないから、はりつけになったかも知れない。

役割が、そこで果たせていないためである。

Image by Gerd Altmann from Pixabay

霊的パワーは、本人の努力次第

霊魂

幸福というのは個人の問題なので、他者が不幸だと言っても、本人は幸福だと感じていたりもする。

その逆であったりもする。

よって、本人が幸福なら、文句は言えない。

が、霊魂はそうは見てない。

「この人はこんなに幸福になるため生まれていない。もっと不幸でよい」

「その代わり、やるべきことがあった」そう考えている。

ゆえに、霊的パワーは、病気や健康、学力やお金、そういったものの全てから独立して、何が正しいのか、それだけのために働いている。

病気になって、死ぬのが正しければ死ねば良い。

それを助ける必要は、もうとうない。

それが、その魂にとって本当に良ければの話し。

もちろん、助けられるものなら、助けてあげたいのが普通である。

しかし、高貴な霊魂は、そのくらいの次元で見ているものだと認識していないと、何でも、私のもとに来れば救われるとか、何でも、ここへ来ればなんとかなるとか、そうしたおかしげな事になる。

もしも、神や仏を信じて、本当に誰でも、皆、幸福な人生が得られるとしたら、そこはいわゆるサタンである。

間違いのない、サタンである。

邪霊そのものといえる。

Image by Meik Schmidt from Pixabay
まちゃたま

サンタじゃなくてサタンだね。

霊魂

幸福の観念が、それぞれ違っているのに、自分にとっての幸福が皆、得られるとしたら、間違いなくそれは、霊的に正しいことではない。

「不幸おおいに結構!」

しかし、それがその人の生まれた目的に沿っているならば、やがてもっと深い意味での、本当の意味での幸福に至るはずである。

例えば、あす死ぬとする。

我らは、死ねと言う。

しかし、「3年生きたら、この世に生まれた何らかの価値や使命を、自分は果たせるのです」

「だから、生かしてください」

と言うなら、霊魂は「なら生かそう!」と言う。

実際、生かせるかどうかはともかくとして、そのように働く。

そうでなければ、死んでもらえばそれで良い。

それが運命でもある。

そこでやはり、いくつになっても、人はなぜ生きているのかを、いつも考えなければならない。

やがて霊魂になって、再びあの世に行く時に、自分は消滅していない。

ということは、今、何を行うか、これから何を行うかによって、何千年、いや永遠に続くであろう自分の人生が変わってしまう。

何が正しいのか。

そんなことは、我々ごときにわかることではない。

ひとりひとり、全員、背負っているものが違うのに、一律に「あなたはああしなさい、こうしなさい」など言えるものではない。

我々とて、決して言えない。

ただ、すれば良いのにと、言えるのみである。

よって霊的パワーを、日々身につけて欲しい。

そうすれば、自分で考え、自分で生きられる。

そのためには、なるべく高貴な霊的環境に、自分を置いて欲しい。

もし、高貴な霊的、宗教的組織が山ほどあれば、皆、良いに決まっている。

しかし、世の中を見るに、皆、ここへ来れば救われるとか、ご利益があるとか、みな幸福になれると、甘い汁ばっかりをたらしている。

そんなところに、高貴な霊魂は働くわけがないから、どこに行っても無駄である。

Image by Three-shots from Pixabay
まちゃたま

悪い奴っていうのは、甘い言葉をかけて寄ってくるよね。

みんなそれに騙される。

また、うまいんだよ。

霊魂

つまり、自分で探すしかない。

日本には幸い、神秘なる山もある。

高貴な、霊場もある。

我々は、そういった所をフルに利用し、地上に少しでも霊的な高い気を降ろす。

それを、使命と考えております。

仮に、釈迦がここに現れる。

「お前を斬る」といえば、「斬ってみろ」と私は言います。

仮にイエスが現れ、「お前が邪魔だ」と言われたら、「お前の方こそ邪魔だ」と私は言います。

なぜなら、霊力は、一言の重みでもある。

仮にイエスが来ても、釈迦が来ても、今ここにいる方たちには、関係ない。

ここで今、我々が話すことは、人々の運命に影響を与えてしまう。

よって下がれない。

なんと言われても、下がれない。

ただひたすら、正しいと今思うことを、確実に話すのみ。

間違っていたら、後で腹を切るだけである。

霊的なパワーは、何もわからなくてもみな、共通してもっており、本人の努力で必ず増やしていける。

それが生きているときも、死んでいるときも、必ず力になる。

講演会は対話形式ではありません。

まちゃたま

もしかしたら、人が生まれてくる時に「こう生きよう」とか「こういったことをしよう」と希望をふくらませ、生まれてくるのかもしれません。

しかし、その記憶がない。

そのうえ現実社会は生きること、生活すること自体が大変です。

そういった競争社会の中で流されていると、つい本当の自分を失ってしまうのではないでしょうか。

もし死後の世界あるなら、死んでから「自分のやりたいことが果たせなかった」とならないような人生を送りたいものです。

霊魂学書籍のご紹介
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