気で病気を治す??
このところ病気の人に手を当てたり、気を送ったりして、病気を治すというようなことがブームです。
果たして、効果はあるのでしょうか?
ほとんどの場合、病気治療などで使われている「気」とは、間気(かんき)または、エクトプラズムと呼ばれるものです。 (幽気というものもありますが、幽気をコントロールすることは難しいの、でここでは省略させて頂きます。)
本来、間気というものは、肉体と幽体という霊的身体を、ダブらせるための接着剤のような役割をしています。
霊的なものであるけれども、物質に近い、物質に作用しやすい、霊的な気といえます。
この間気があってこそ、肉体と幽体をタブらせることが可能なのです。
間気は、比較的簡単に、自分の意識でコントロールすることができます。
体の中ので回してみたり、他者に自分の間気入れたり、人から抜いたりすることもできす。
実は間気というもには、血液に血液型の違いがあるように、人により異なっているということは、あまり知られていません。
ところが、施術する人が何も知らないため、誰彼かまわず入れたり、出したりしているのが現実です。
ただ、病気になっている部分に、間気が不足しているのであれば、補充されるわけですから、一時的に良くなる場合もあります。
しかし、もともと自分に合わない間気が入ってしまうのだから、別の不調を起こしてしまうことも考えられます。
とにかく、こういったことをやっても、何の病気治療にもなりません。
「わたしから送られる気は、○○エネルギーというすばらしいものである」などと言ったところで、それなりのものしか出ないのです。
肉体の病気と霊的な因果関係というものは、かなり複雑であるといえます。
また、肉体の病気が全て、霊的なことが原因であると考えるのも間違っています。
仮に霊的な状態が原因の病気であるなら「間気か幽気か?」 「気が漏れて足りないのか、滞っているのか?」、またそれが「低い念の影響であるのか?」「幽体の状態はどうか」こうしたことまで考えなければ、問題は解決されません。
治療をする側に、正しい霊的知識と霊的な力がないと、何の効果もないばかりか、新たな不調を誘発させてしまうこともあるのです。
超能力は誰にでもある
一般的に言われている超能力というものに、「スプーン曲げ」という物質に変化を起こすものがあります。
スプーンを曲げる人達の中には、手品でやっている方もいますが、必ずしも全てインチキではありません。
実際に可能なのです。
間気というものは、肉体と幽体をくっ付けるような働きをしていることは、前にもお話しましたが、これを使うことにより、物質に変化を起こすことが出来るのです。
この間気は誰でもあるので、うまくコントロールすることが出来れば、誰でもスプーンが曲がるようになります。
よくスプーンを曲げる人が、一生懸命に、念じているところを見たことがあると思いますが、あれは肉体から間気を出しているのです。
こんなことを言うと、「それじゃぁ、やってみよう!」と思われるでしょうが、それは肉体と幽体の接着剤を、無駄遣いしていることになります。
肉体と幽体は、しっかりダブっていて健全といえます。
それなのに、間気を出してしまうと幽体がズレ始めます。
そうなると、ケガや病気をしやすくなる場合もあるし、幽体離脱というような現象を起こすことも十分考えられます。
そのうえ、いたずらな霊魂の侵入を許してしまうことにもつながります。
最初は、おもしろ半分でスプーンを曲げていたら、そのうち幽体離脱をするようになって、悪い霊魂に憑依されてしまった。
ある意味では、超能力三昧ですが、こうなってしまうと、霊的な意味で救いようが無くなってしまいます。
とにかく間気はいじらない、出さないようにしなければなりません。
この間気というものは、いたずらな霊魂の遊び道具でもあります。
幽体の存在である霊魂には、物質の身体である人間になかなか影響力がありません。
そのため、間気が漏れている人を見ると大喜びです。
漏れている人の間気を利用して、いろんなことをします。
幽霊現象のほとんどは、幽体の霊魂を見ているというより、自分のエクトプラズムを見ているということなのです。
漏れている間気を利用して、いたずらな霊魂が、人の形に見せたりしているだけなのです。
あまり詳しいことを書くと長くなりますので、興味のある方は、水波霊魂学の書籍を、お読み下さい。
例えば、水の禊という行法がありますが、これを行うと間気がどんどん増えます。
そして間気の正常化をはかります。
こうなると、さすがのいたずら霊魂も、手が出せなくなってしまうのです。
間気はとても大切なものです。
これをいじると、必ずおかしくなると言っても良いでしょう。
霊的な栄養
人が霊的な成長をするためには、精神面での成長も大切ですが、それだけでは不充分です。
やはり自分自身で、霊的な力を得なければなりません。
つまり、幽体という霊的身体の栄養のようなものを吸収することです。
それでは、その栄養を、どうすれば得ることができるのでしょうか?
現代では、人々が信仰というものから離れてしまう傾向にありますが、古代の人達を例にとれば、日常生活において、信仰というものが、ごく当たり前のように、また生活の一部として、存在していたようです。
というのも古代の人々は、特に現代人には薄れてしまった霊的な感性を持っていたといえます。
それは、霊的な何かが見える、というような霊能力的な力が発達していたのではありません。
肉体を持てば、 霊魂など見えなくて当たり前、声も聞こえなくて当然、それがむしろ正常といえます。
大昔の人も、現代の人達も一緒です。
それでも「人間は単純に肉体だけの存在ではなく、物質的ではない何かである」 そして「自分よりはるかに高貴な存在というものの確信」というものがあり、それが霊的な感性といえるものなのです。
古代の人々の心の中には、常にそういった高貴な存在への思いがあったし、求めていたのです。
当時の人々が、高貴な存在を、何と呼んでいたのかはともかくとして、そういった信仰心というもので、霊的な栄養を摂っていたのです。
現代と反対に、宗教的なのが常識だったと思います。
かといって、古代の人々でも、神や仏を心に思うことで、それぞれに、自然と霊的な栄養となる気が降りてきたわけではありません。
やはり人間の中でも霊的に成長した人が中心となり、人々がそこに集まっていたのです。
それが現代では、形式的なものにとどまってしまった、祭りや神事というものなのです。
それでは、なぜそういったことで、霊的な栄養が摂れるのか疑問に思われることでしょう。
単純に宗教というものに関心を持ったから、また神や仏を信じたからといって霊的に成長するものでもありません。
確かに信じないより信じた方が良いのでしょうが、実は、霊的な栄養となる力というものは、より発達、向上した霊魂からの流れでしかないのです。
つまり、求めようとする人がいて、またそれに応えようとする霊魂がいなければならないのです。
ただ、霊魂といっても、地上の人間と変わらない霊的レベルではどうにもなりません。
人間の幽体というものは、もともと未熟ですから、通常は、地上でいたずらをしているような低い霊魂ばかりの目に止まります。
そこで、霊的にいつも清められているような場所があって、高い霊魂の目に止まるほど進歩した人が中心となれば、それが高貴な霊魂の目印となり、高い霊的空間となり得ます。
宗教というものの目的や価値、存在意義というような、宗教の在り方について簡単に語れるものではありませんが、単純に霊的な面のみの価値を考えるのであれば、「霊的栄養が摂れるか?」ということだけなのです。
つまり、霊的栄養を得ることができれば良い宗教で、摂れなければ、霊的にはあまり意味がなくなってしまいます。
しかし、それはあくまで霊的部分での価値を言っているのであって、それぞれの宗教が持っている良い部分もありますから、全てを批判するものではありません。
霊的栄養を摂ることは、必ずしも宗教という枠にこだわらなくても、霊的に高い気が流れる得る空間を作成できれば、自然と霊的な影響を受けることになります。
霊的な修行法や瞑想なども、霊的な栄養が得ることが本来の目的です。
それには、高貴な霊的存在への信仰心が必要です。
となると、やはり宗教的な分野となるのでしょう。
単に瞑想すれば良いというものでもなく、霊魂が関与しなければ、ボーッとしているのと変わらないのです。
祓い・お祓い
「祓い」これは誰にでも、ぜひお勧めしたいものです。
ただ最近では、霊的なことなど認めない人も多く、単なる形式的な「気休め」としか考えていないのであれば、口をはさむつもりはありません。
しかし、本当に祓いを受けたいのに、実際に祓われていなかったり、何も影響がないならまだしも、祓うどころが逆に悪いものをつけられてしまう場合もあるようです。
祓いを真面目に考えるのであれば、まず「祓いとは何か?」という認識が必要といえます。
祓いとは、幽体と呼ばれる霊的身体に付着した、幽気と呼ばれる霊的な「悪い、低い気」を祓うことを意味します。
世の中には祓いについて、様々なことを言う人もいるでしょうが、昔から祓いと言えば、本当は、幽気を祓うことを意味します。
物質的なものであれば、わざわざ祓いなどを行わなくても、お風呂に入れば良いことです。
人は日常生活において、知らず知らずに、低い幽気を付着させてしまうものです。
それは様々な人と接したり、人だけに限らず、低い霊魂の影響を受けてしまう場合もあります。
また、霊的にあまり良くないと思えるような場所もあるようです。
幽気は土地や家というような場所にとどまったり、物品に付着したりすることもあるので、必ずしも人に限定するものではありません。
ただ、祓いを受けることはとても良いことなのですが、必ずしも万能ではないことを知って頂きたいと思います。
例えば、他人から強い攻撃的な念を受けてしまった場合は、幽体が傷ついてしまうこともあります。
これは祓いだけでは、不充分と言えます。
また、霊的身体の不調が原因で起こる霊障や、頻繁に低い霊魂に寄られるような場合は、根本的な解決が必要になります。
それでは、祓いを行える人とは、どのような人なのでしょうか?
まず霊魂という存在を、前提にしなければなりません。
世間では「霊魂など認めない」などと言う人も祓いをするようですが、どうやって何を祓っているのか疑問になります。
常に霊的な技法というものは、霊的な何かをするわけですから、ひとりの肉体を持った人間のみの力では、限界があります。
そのためには、霊魂と二人三脚でないと、ほとんど力を持ちません。
ただ、霊魂といっても、その辺で悪さをしている程度の霊魂では出来ません。
それは、自分自身が祓われるべきとも言えるからです。
ということは、霊能力を持つ人は必ず祓いが出来るという訳にはいかないのです。
所詮、霊能力というものは一つの技術でしかありません。
地上で悪さをしている霊魂が関与すれば、比較的簡単に身についてしまうものだからです。
もとともそういった霊魂は、人間の霊的向上など無視して動いています。
人の足を引っ張ることに生き甲斐(死んでる?)を感じています。
そんなに人間に対して献身的なら、はじめから簡単に霊能力など持たせる訳がありません。
つまり霊能力者だからといって、必ず祓いが出来るとは限らないのです。
祓いとは、人間の指示で霊的レベルの高い霊魂を、動かすことの出来る「霊力」を持った方が行いうると考えた方が良いでしょう。(注意:「霊力」は霊的な力という意味で、「霊能力」とは異なる用語として使用しています。)
ということは、逆に霊視などの霊能力などなくとも、祓いを行い得るといえます。
ところが、祓いが出来る人か出来ない人かを、簡単に見分けることができません。
祓いを薦めておきながら無責任なことを言うようですが、見分け方は、その方の人格でもないし、有名だから良いとか、料金の高低も当てになりません。
以前、精神的な病気を抱えた人がいましたが、「祓いで治る」という霊能者の言葉を信じて依頼したそうです。
しかし、何の改善もみられなかったようです。
そこで、霊能者に聞き正したところ「もう一度やれば大丈夫」ということで、多額のお金を取られてしまったようです。
表面的には、ただのインチキ霊能者に騙されたということになりますが、実際に霊能力を持っているとなると、話が難しくなります。
霊能力が本当にあるということは、必ずバックに霊魂がいます。
霊能力者が何らかの技法を行うことにより、低い霊魂は、ここぞとばかりに好き勝手なことをすることがあります。
多額のお金を取られたうえ、低い霊魂の影響を受けてしまっては、踏んだり蹴ったりです。
こんなことを言うと「怖くて安易に祓いなど受けられない」ということになってしまうことでしょう。
それなら、実際に祓えているのかわからないような祓いを受けるより、初めから他人など当てにしないで、自分で自分を祓ってしまえば良いのです。
水の禊という基本的な行法を毎日行っている人というのは、祓いなど必要なくなります。
そのうえ祓い以上の効果があります。
祓いというのは、単に低い幽気の除去ということですが、これは、幽体そのものを変化させてしまうものなのです。
本物の祓いというのは、それほど霊的に敏感でない方でも「気持ち良い」とか「すっきりした」などと感じられる場合もあります。
現代では、そういった祓いを行える方は、少ないのではないでしょうか?
最後に、必要を感じられて祓いを受けるという場合は、祓いをなさる方の祓いに関する考えを伺ってみるべきだと思います。
除霊
「除霊など自分には関係ねぇ~や」と思われる方も多いことでしょうか?
実は、人間に対して、霊的に悪い影響を与える霊魂の数は半端ではないのです。
おぞましい心霊、恐怖体験などの話の数だけと思ったら、大間違いとい言えます。
それは低い霊魂というものは、単に人間に対し恐怖を与えるだけとは限りません。
中にはそういった霊魂もいるでしょうが、そればかりではなく、 とにかく人間に対し影響力を持ちたいという思いでいっぱいの霊魂が、地上でフラフラしているのです。
むしろ、自分の正体を気づかせない方が、好都合だったりもします。
悪い、意識の低い霊魂というものに影響されるということは「誰にでも起きうる」ことです。
それは、霊魂からは肉体は見えませんが、肉体とダブった幽体が見えるからです。
影響といっても様々ですので、本当に除霊を必要とするような、頻繁に特定の霊魂に影響を受けているとか、完全に憑依されてしまったという極端なケースというのは、少ないものかも知れません。
しかし、寄られるということは、多々あることなのです。
低い霊魂のえじきにならないためには、悪さをするような霊魂の目に、止まりにくくなればいいのです。
霊的な法則というのは、幽体の質が近ければ視覚しやすものなので、幽体を発達、強化するということが、根本的な解決方法といえます。
そうすることにより、今度は、守護霊というような高い方の霊魂の目に止まりやすくなります。
祓いと違い除霊というものは、霊的な高低にかかわらず、力のある霊魂がバックにいれば簡単に出来ます。
邪悪であればあるほど、除霊の力があると思って下さい。
チンピラのような小者は、マフィアのボスが出てくるとビビってしまうのです。
しかし、「小者は退治しました、良かったですね!」とすんなり帰してくれるかどうかは知りませんが・・・。
世の中には人の弱みに付け込み、見えないことを良いことに、深い悩みを抱えた人達に、「あなたは○○の霊魂がついています。すぐに除霊しなければいけない」などといって、脅迫まがいのことを言う人もいます。
それが本当かどうかはさておき、「はい、除霊しました」といって帰すわけにいかないはずなのです。
今後の対策や処置がなければ、一時的なものでしかありません。
つまり、霊魂に影響されやすい原因を解決しなければ、意味がないのです。
例えば、憑依されてしまった場合というのは、本来肉体としっかりダブっているはずの幽体が、ずれているから憑依されることが多いのであって、そのうえ低い霊魂の幽気に染まってしまっています。
こういったことを「どうするか?」の対策が必要なのです。
高級霊がバックについている霊力者の前では、悪い霊魂は、除霊する前からすでにその場にはいないかもしれません。
ということは、その時点で、すでに低い霊魂を排除したことになります。
しかし、また同じことが起きないようにするためには、間気が原因なら、漏れないようにしようとか、低い幽気に染まっているのであれば、抜いて補充しないとなりません。
しかし、もともと低い霊魂に影響を受けやすい幽体の質ということは、直接高い霊魂の幽気は馴染まないのです。
となると、人間である霊力者自身を経由させて、入れる場合もあるのです。
一般的には除霊と簡単に言いますが、複雑で難しい技術であるといえます。
それを考えると、除霊を受ける人は、霊力者の高低、本物か偽物か、それをしっかり考えてから除霊を受け、 なおかつ、本物の霊力者の指示をきちんと守る事を心掛けるべきだと思えます。
霊的パワーをつける
このサイトでは、霊的修行法というものをお勧めしていますが、一般的に修行法などと言うと、お坊さんや神主さんというような仕事をする人や、 超能力や霊能力のような、特別な力を求める人が行うものと考えがちではないでしょうか?
昔の山岳仏教のように、山にこもり、寝ずに山の中を走り回ったり、一心不乱にお経を唱え続けたり、 何時間も座禅や瞑想を行ったり、冷たい滝にうたれたり、考えただけでゾッとしてしまいます。
しかし、それは確実に成果の出る体系化された修行法がない、という場合の苦肉の策と言って良いでしょう。
自分を過酷な状態に追い込むことにより、運良く、その想い、熱意に感応した高い霊魂が力をかけてくれた場合は良いのですが、低い霊魂が寄って来てしまう場合がほとんどではないかと思います。
なぜなら、本来肉体を酷使し、意識がもうろうとしている状態というのは、霊的にもあまり良い状態とはいえないからです。
肉体を疲労させることにより、霊的な力が上がるのではなく、むしろ肉体の力が弱まれば、霊的な力も発揮しにくいのです。
しかし、お釈迦様がカゼをひいて寝込んでいるからといって、普通の人に戻ってしまうようなことはありません。
達人と普通の人は、そのまま比べることはできません。
それでも、「難行苦行の末に霊能力を授かったという人がいるじゃないか!」と思われるでしょう。
実は、霊能力というものは、霊的なパワーとは関係無く、故意に霊的不調を引き起こすことでも得ることが出来ます。
どんな霊魂でも構わないから、直接的に霊魂の影響を受けやすい霊的状態にしてしまえば、霊能力を発揮する場合もあるのです。
霊能力というものをエサに、何も知らない人間をもてあそぼうと、待ち構えている低い霊魂もいます。
霊能力とまではいかないものの、頻繁に幽霊を見たり、心霊体験をする人にも、同じようなことが言えます。
つまり、いずれも低い霊魂が、イタズラしやすい霊的状態にあるのです。
本来、物質の身体を持たない霊魂というものは、人間に対して、直接的な影響を及ぼそうとしても簡単ではありません。
だからといって、今まで一度も霊体験などないから、健全であるというものではありません。
自分では分からない部分で、影響を受けている場合が多いのです。
正しい修行法を行っていれば、少しばかりの神秘的な体験もあるかもしれませんが、突然「霊魂の姿が見えた、声が聞こえた」などということはありません。
高級霊はなるべく霊能力など持たない方が良いと考えています。
よほど修行を積んだ方でないと、結果的に霊的な幸福につながらないからです。
実際に修行法を行う以前は、頻繁に心霊体験があった人も、修行法を行うことで霊的不調が解消して、霊現象など無くなったという方もいます。
人間の霊的身体というものは、未熟です。
意図的に霊的な力を自分から得ようとしなければ、地上をフラフラしている未熟な霊魂ばかりの目に止まってしまいます。
よく、心の強い人は、霊に憑かれないとか、自分の心を強く持つことで、霊的パワーが付くと考えている方もいますが、それは単に心の変化にすぎません。
つまり、心の変化は霊的不調を解消したり、幽体という霊的身体の強化とは、あまり関係がないからです。
「やせたい!」と思っていても、そう思うことによりやせるのでなく、運動をしたり食事に気を使うといった、何らかの努力があるから成果が出るものです。(ダイエットを推進しているわけではありません)
同様に、霊的な部分を変化させるには、霊的な状態を改善させるための技法や、幽体を発達させる訓練が必要なのです。
成果につながる努力をするための心の強さと考えるなら、心とは無関係と一概には言えませんが。
霊的パワーとは、霊的状態を健全にし、正しく肉体が活動し、低い霊魂ではなく、高級霊の協力を得て、霊的成長、向上に向けて働く力と言えます。
その力を得るために行うのが、霊的修行法というものです。
人は死後、おのずと今の霊的身体で活動しなければなりません。
こういったことを考えると、やはり誰にでも行ってもらいたいと思えます。
もし、本当に霊能力というものを求めるならば、未熟な霊魂の影響など無縁といえるような状態になることが大前提といえます。