霊魂から離れていく人々
人間は、どのような存在なのか?
人が生きる目的は何か?
その目的があるとするなら、どう生きれば良いのか?
なぜ、地上に生まれてくるのか?
自分は死んだら、どうなるのか?
このようなことは誰しも考える、ごく普通の疑問です。
そこで、何もわからないから教えてくれる所を探し、学びに行く。
それは自然なことであって、ある意味では勉強熱心で、良い事であるはずなのです。
ところが、霊的なことになると「宗教に走った」とか「心の弱い人間だ」などと言われてしまい、白い目で見られてしまいます。
なぜ、宗教的世界は、そのようなことが言われるのでしょう。
それは、事実を示してくれる人がいない。
目的が曖昧になっているからではないでしょうか。
宗教的組織となってしまうと、人とお金が集まらないと運営ができない。
そこで、多少の誇大広告も必要になります。
何か人々の気を引こうとすれば、多くの人の考えていることは、自分の欲求を満たすことであるから、それを叶えてくれること。
その結果、宗教的な集団は、ついつい「あなたの欲求に応えます」と言ってしまう。
つまらぬご利益ばかりが前面に出てしまい、「願いが叶った、叶わない」ということが重要視されてしまい、やれ「病気が治る」「受験に受かる」とか、「悩みごとが解決する」そればかりになってしまいます。
そうなると、健康で、まぁ、一応幸せそうな生活をしている人には、全く関係がなくなり、そういった人達からみると、宗教的な人は、「他力本願で、自分で努力をしない」「ご利益ばかり期待する」人達となってしまいます。
また、修行法を実践するという神秘的な集団は、「必ず超能力や、霊能力がつきます」なんだらかんだらエネルギーで、「願望を達成する」などといいます。
ということは、人間以外の神や仏、霊的な存在を前提としているなら、その目的は見えない存在に対して、ただ自分勝手に「おのれの欲求を満たせ!」という要求であって、ご利益を期待する以外の何物でもありません。
しかし、世の中には真面目な団体もいます。
ただ、あまり話題にならないだけだと思います。
マスコミが宗教的な集団をとりあげることがあるなら、事件を起こしたとか、詐欺行為だの、話題になるのは、法律を犯す悪い組織だけだからです。
確かに、幸せになりたいという思いは、誰にでもありますし、僕もそうです。
それは、決して悪いことではないと思います。
だから、もっと宗教的、霊的世界しか表現できない、「霊魂」について語られてほしいのです。
自分の霊的な部分について認識することは、本当の意味での幸、不幸を決めてしまうくらいのものだと感じています。
イエスキリストや、お釈迦様も、神や仏という存在に対し「何でも願いをかなえてくれる、ご利益の対象である」などと言っていません。
そして必ず言葉は違えど、霊魂というものを主張したはずです。
人間というものの霊的な部分を教えたかったのだと思います。
それは、霊魂というものを無視して人間を語れないからです。
守護霊は悩んでいる
守護霊は自分の担当する人間のことを、いつも考えてくれています。
それなのに、地上の人間が自分(守護霊)のことを意識してくれないほど、淋しいことはないでしょう。
いつでも協力する準備が出来ているのに、力を発揮できないのです。
よく、おじいちゃん、おばあちゃんがなるという人もいますが、それでは力不足です。
仮に、自分が死んだことを考えればわかると思いますが、今まで「死後の世界は、あるのかないのか?」などと考えているような人が、死んでから、すぐに何ができるでしょうか。
つまらぬご利益を与えるのが、守護霊の仕事ではありません。
人間は何度も再生(生まれ変わり)し、担当する人間の過去がどのような人生を送って、心の奥にどういった心情が潜んでいるかを調査してあります。
過去世調査というのは、守護霊から聞くことがほとんどです。
守護霊は担当する人間の過去を知った上で、霊魂としての人間に対し、どうすれば、その人にとって良いかということを知っています。
また、担当する人間の幽体が、守護霊とかけ離れてしまっていては、「どこにいるのか、何をしているのか?」さっぱりわかりません。
霊的な法則というのは、幽体の質が近いほど、視覚しやすいのです。
それでも、手段がないわけでもありません。
地上の人間に近い幽体の霊魂を、補助霊として間に入れます。
しかし、補助霊というものが地上の人間に近いということは、考え方が、人間的すぎるという欠点もあります。
できれば地上の人間の側の幽体を成長させ、守護霊が直接指導できるようになることが望ましいのです。
守護霊としていちばん頭を悩ませるのは、担当する人に、地上をうろつくイタズラな霊魂が回りを取り囲んでいる場合です。
こうなってしまうと、守護霊も手が出せないのです。
守護霊、それ以上の意識の高い霊魂は、常に人間の自由意思を尊重しています。
これは、人間に対して、決して冷酷なのではありません。
人間の側の選択です。
守護霊レベルの霊魂となれば、自分の本来の生活圏にいる方が、絶対に幸せなはずです。
それでも、わざわざ薄汚れた地上に降りて来るのです。
守護霊という任務は、地上の人間を指導することによる、報酬のようなものはありません。
損得ばかりを、頭の中でめぐらしている地上の人間には、考えられないことです。
それほど、人間のことを考えてくれています。
たぶん守護霊の本音を言えば、押し付けであっても、首に縄をつけてでも、引きずって行きたいところでしょう。
唯一、守護霊をやって良かったなと思えることがあります。
まれに担当する人間が霊的修行法などにより、霊的な向上をした場合です。
指導する人間が向上するということは、一緒に守護霊自身も進歩することができます。
しかし、霊的修行法などと全く無縁な時代では、それも期待できないことでしょう。
霊力をつける
「霊力??」
「そんなもの必要ないよ!」と思う人はたくさんいることでしょう。
仮に、霊力というものが、超能力や霊能力とするなら、必要ないものかも知れません。
人が見えない霊的なものが見えたり感じたり、透視や念力。
普通に生活をしている人には、関係がないことです。
確かに、そのようなことができなくても、何の支障もありません。
僕も、そういった力は、必要がないと思っています。
しかし、霊力というものは超能力や霊能力とは違い、誰にも求めて頂きたいと感じています。
霊魂は、「心など汚くても良いから、とにかく力をつけよ!」と言います。
それは人間というものが死んで地上を去ると、必ず幽体という霊的身体で、活動しなければならないからです。
霊魂は自分が体験したからこそ、それを実感しています。
「心の問題は、あの世に行ってからでも何とかなる」
「しかし、幽体に力がないと、あの世では必ず不幸になる」そう言い切ります。
テレビなどでは、健康になるためにどうすれば良いか?
何を食べると病気を防げるか?
そういったテーマの番組を、よく見かけます。
それは、多くの人が健康について、関心があるからだと思います。
それは、肉体が不自由であることは、どういう事かを知っているからです。
それと同様に、霊魂として幽体に力をつけるということは、人々の考えている肉体の健康なのです。
いや、それ以上かも知れません。
人はかなり長生きしたとしても100年程度ですが、霊魂としての生活は、比べられないほど長いからです。
しかし霊力というのは、幽体の力のみではありません。
人が地上で生きるということは、霊的な部分と、深いつながりをもっています。
それは人間というのは、肉体のみが独立して、活動しているからではないのです。
人が何かを考え、そして行動する。
ごく単純なことのように思えますが、そこには、常に霊的な部分の意識が、関わりをもっています。
ただ、人は、それになかなか気がつけないだけなのです。
人が、肉体をもって生きている時も、やがて霊的な存在となってからも、魂としての、全体の自分を正しく導ける力、それが霊力です。
肉体と幽体をくっつけるもの
肉体と幽体は、ダブっていると言いましたが、この物質と幽質という異質なものが、どうしてダブるのでしょうか?
車に乗って、急発進したら「幽体が置いていかれてしまった!」ということもありえます。
常にダブっているためには、肉体と幽体をくっつける、何かが必要です。
エクトプラズムという言葉を聞いたことがありませんか?
ヘクトパスカルではありません。
エクトプラズムというのは、簡単に言うと、肉体と幽体の接着剤だと思って下さい。
エクトプラズムは、水波霊魂学では、間気(かんき)と言います。
幽質でありながら、物質に近い(作用する)ものです。
正常な人というのは、この内気が満ちあふれていて、漏れていない状態です。
神伝禊法の初伝、「水の禊」は、間気の正常化を促進させます。
世の中には、このエクトプラズムを『気』と称し、入れたり出したり、はたまた、体の中でくるくる回す人もいるようです。
エクトプラズムというものは、遊び道具ではありません。
それなのに人間だけではなく、イタズラな霊魂までが、遊び道具にしているのです。
このエクトプラズムが、漏れていたり、不足している人を見ると、イタズラな霊魂は大喜びです。
「他人の不幸は蜜の味」といいますが、人間にとっては大変な迷惑です。
間気の状態により、どのような弊害があるのでしょうか。
簡単に説明します。
エクトプラズムの漏れ・不足・不調
霊現象を体験しやすい(幽霊を見る、金縛りになる・・・)
多くの心霊現象というものは、いたずらな霊魂が、エクトプラズムを利用したものがほとんどです。
※金縛りといっても、肉体が極端に疲労している時には、寝ている時に、意識は目が覚めていても体が動かないというようなこともあります。
ここでは、霊的な金縛りを指します。
ケガや病気
間気の不足、片寄り、不調などによるなどにより、その個所が病気になりやすかったり、ケガをしやすいことがあります。
※ケガや病気の全てが、内気の不足や不調ということではありません。
幽体がずれやすくなる(幽体離脱、憑依)
部分的に幽体がずれやすくなると、自分の体でありながらも、使いづらくなったり、ケガをしてしまうようなことがあります。
そのうえ、いたずらな霊魂に、憑依されてしまう危険さえもあります。
また極端になると、幽体離脱を引き起こしてしまうことも考えられます。
幽体離脱をしている状態は、イタズラな霊魂に「入ってもいいですよ」と言っているようなものです。
間気は、自分の意識によって、体の中で回したりすることも簡単にできます。
また、他者に間気を送ったり、他者の間気をいじったりすることも可能です。
しかし、こういったことは、絶対避けなければなりません。
間気を安易に考えていると、とんでもないことになってしまいます。
霊的修行法・霊的トレーニング
このところ世間では「修行」という言葉のイメージがとても悪いようです。
「修行!、修行!」と言いながら、何やらおかしげなことをしている人もいるようです。
実際のところ、修行とは何なのでしょうか?
ここでは、霊的修行法について説明します。
霊的というからには、霊的なことを前提としています。
人は、肉体のみではありません。
物質とは別の身体があるのです。
それを霊的身体と呼んでいます。
その霊的身体の幽体というものは、肉体とダブっています。
今仮に、手を上にあげたとします。
その時、幽体の手も一緒に動いているのです。
この幽体が肉体から完全に離れてしまった時が、いわゆる「死」というものです。
しかし、「死」といっても、全てが無くなる訳ではありません。
単に肉体の活動が終わっただけで、幽体は、そのまま活動し続けます。
今まで肉体が、自分自身の表現体であったものが、幽体に移ったと考えればわかりやすいでしょう。
霊的身体には霊体というものも存在しますが、話しが難しくなってしまうので、ここでは幽体を主として、話しを進めます。
霊的修行法とは、この幽体を、変化させようとするものです。
地上に生まれて来た人間の幽体というものは、非常に未熟といえます。
本来は肉体と同様に、年齢を重ねるごとに、成長してゆくことが望ましいのですが、現実はそうではないようです。
ですから、「霊的修行法」という言葉に抵抗があるなら、幽体の「霊的トレーニング」でもいいし、「発達させる技術」でも構いません。
この霊的修行法は、全ての人に必要なことといえます。
それは、霊魂の存在を信じようと、信じまいと関係なく幽体があるし、それぞれに、今回はじめて生まれたのではなく、何度も再生してきているからです。
確実に効果のある霊的修行法をこなした人以外は、幽体の完全な人など、いないと思ってもいいほどです。
修行法というものは、霊魂との協力のうえに成り立っています。
しかし、人にはそれぞれ自由があり、霊魂にも自由があります。
「霊魂なんかに、協力して欲しいとは思わない」と考えている人には、霊魂は何もしないだろうし、あまり関係のないことです。
そのような人は、自らの道を歩んで頂くしかありません。
大切なことは、より進歩した霊魂の協力を得て、はじめて霊的修行法となりうるのです。
そして、その修行法により、自分の霊的な部分を変化、向上させるこが本来の目的です。
神伝・霊的修行法、霊的トレーニング
先ほどお話しした通り、霊的修行法というのは、霊魂の協力によって成果があがります。
よく瞑目時などは、呼吸というものを重視します。
それは、呼吸によって、オーラが変化するからです。
心を静めて呼吸を整えると、オーラが安定します。
すると、霊魂から視覚しやすい状態になるからです。
また、環境、場の設定が大切といえます。
例えば、運動することは体に良いからといって、毒ガスのような汚れた所で運動して、汚い空気をいっぱい吸い込んでしまえば、体に良いわけがありません。
昔から、必ず道場のような場所をつくり、そこで修行法を行っていました。
しかし現代人は忙しくて、そんなことも言っていられません。
昔のヨーガ修行者のように何時間も瞑想することもできないし、あまり時間をかけずに、効果の上がる行法が必要といえます。
そこで、現代人の生活に合わせた体系を作ることです。
あらかじめ行法の中に、良い霊的な環境をつくる作法を、組み込んでしまえばいいのです。
僕の行っている鎮魂法、禊法などは、そのような体系にしてあります。
最初は指導者のもとで習わなければなりませんが、その後は、自宅でひとりで行えるようになっています。
僕も本格的に修行法を始める以前は、書店で本を買ってきて、ひとりで、見よう見真似の瞑想などを行っていました。
知らないということは恐ろしいもので、いま考えるとゾッとします。
しかし、長い期間やっていなかったのが良かったのでしょう。
独習というのは、大変危険を伴うものです。
もしかしたら、あのまま独習を続けていたとすると、僕はいたずらな霊魂に憑依されて、頭がおかしくなっていたかもしれなのです。
できれば、信頼のおける指導者のもとで、行うことをおすすめします。
その方が危険も少ないし、絶対に早いと思います。
ひとりで瞑想し、いかに力んでみても、低い霊魂の影響を受けてしまうようでは、何の為の修行なのか分からなくなってしまいます。
幽体の意識・深層心理、潜在意識
人の意識というものを分析すると、非常に難しく複雑なものです。
あまり、細かく説明すると逆にわかりにくくなってしまい、読みたくなくなる可能性もありますので、なるべくポイントを絞っていこうと思います。
幽体の意識というものを簡単に説明すると、肉体には脳があり、生まれてからの経験や知識が、脳に記憶されているように、幽体には何度も地上に生まれ、いろいろな人生を経験し、その記憶が詰まっていると考えればいいでしょう。
昔聞いた歌が、ラジオから流れてくると、忘れかけていた、その当時のいろんな出来事が、浮かんでくることがあります。
恋人と楽しく過ごした頃に聞いた歌であれば、急に「ニヤニヤ」してしまったり、辛く悲しい時に聞いた歌であれば、涙が出てきてしまうものです。
ちょっとしたことで、記憶というものは、何らかの刺激で甦ってくることがあります。
あなたが今、社会という中で生活し、人と関わりを持ちながら、いろんな刺激を受けています。
するとその刺激が、幽体にも伝わってしまいます。
刺激を受けた幽体が、今度は反応してしまいます。
「過去にこんなことがあった」と、記憶が甦ってきてしまいます。
そして、心の奥から、幽体の意識が訴えはじめるのです。
深い意識の記憶というのは、普通は明確に現れてきません。
例えば、誰とどんなことで、辛い思いをしたとかではなく、とにかく「悲しい」、「怒りたい」、「泣きたい」といったような、その時に経験したことによる感情、心情のようなものだけが浮いてきます。
いくつもの過去の人生で、忘れようとしても忘れられないものだからこそ、強く残っているのです。
そして、その傷が深ければ深いほど、激しく表面の自分を刺激します。
自分で、「ああしよう、こうしよう」など、考える余裕などありません。
もうこうなると、人にあれこれ説教されたり、なだめられたところで、収まらなくなってしまうのです。
それは、過去の自分が、そのまま甦っているような状態といえます。
例えば、ある交差点を車で通過しようとする時、目の前の信号が今の社会では「赤」なのに、幽体の意識が心の奥で「青だから、どんどん進め!」と叫ぶ時、「黄色」に見えてしまうようなものなのです。
もっと極端になれば、「青」そのものなのです。
回りの人は、みんな「赤信号なのに、危ないね」といっても、本人には青く見えるのです。
落ちついて後から冷静に考えてみたら、「少し黄色いような気がしたかな」という程度なのです。
赤とは言えないものが、心の中にあるのです。
また、同じ交差点をたまたま通過しようとすると、必ず幽体が叫ぶのです。
「青だぞー!」
そして、事故を起こしてしまう。
実は、その交差点には、本人が交差点に引きつけられる何かがあったし、幽体を刺激してしまう要素があったのです。
しかし、自分の思い出せる記憶というものは、肉体を持って生まれてからのものだけです。
ということは、心の奥の叫びが、どういった性質、原因があるのか、自分ではほとんどわかりません。
それが、何がなんだかわからず、幽体の意識に振りまわされてしまう原因のひとつであるといえます。
人は過去を振り返り、「あの時、ああしていれば良かった」などと後悔したりします。
しかし、そこにはそう出来ない自分がいたのです。
それが幽体の意識というものです。
過去世調査の意味
過去世を調査するということは、自分がこれからの人生を歩んで行く上で、かなり有効であると思います。
輪廻転生という言葉がありますが、人は何度も、この地上に生まれ、いろいろな人生を送ってきました。
「前世」と言う方もおりますが、ひとつ前に限定されてしまうような感じなので、過去世と言っています。
「幽体の意識」でも説明しましたが、過去世を、自分の力で知ることは難しいのです。
それは、自分で思い出せる記憶の範囲は、肉体を持って地上に生まれてからのものだけだからです。
過去世の記憶は、心のもっと深い部分に眠っています。
「前世」を鑑定するなどと言って、占いまがいのことをしている人を見かけます。
依頼者が何も知らないのを良い事に、「あなたの前世は、何世紀にどこどこに生まれたお姫様です」とか依頼者の喜びそうなことを言っています。
中には、「前世は、動物でした」などと平気で言う人もいるそうです。
これには、霊魂学を学んでいる者が聞くと、思わず呆れてしまいます。
まぁ、それはそれで、依頼する人と、答える人が真剣ではないので、ちょうど良いのかもしれません。
しかし、本物の過去世調査というものは、価値があります。
簡単ではありませんが、調査することが出来ます。
ただ、いろいろな過去世の中で、歴史上に名を残すような有名な方もいらっしゃると思います。
しかし、そんなことは教えても意味がありません。
「俺は、過去世で偉かった!」などと、知ったところで何もならないからです。
そんな立派な過去世ばかりで、欠点がないようなら、生まれてくる必然がないのです。
必ず、未熟な部分があるからこそ、今、こうして生まれてきているのです。
大切なことは、今回の人生で、どのような過去世が強く影響を及ぼすのか、そしてそれにどのような対処をすれば良いかということです。
過去世の調査をする場合は、守護霊という存在から聞くことが確実です。
それは、守護霊が担当する人間の過去世を知らないと、その人のテーマが見えてこないし、指導できないのです。
霊魂によれば過去世を調査すると、その人の将来がわかるそうです。
絶対とまではいかないまでも、ほとんど当たってしまうそうです。
肉体とダブった幽体の意識(記憶)は、これまでの人生、今の自分、これからの人生を送るうえでも、常に自分と二人三脚だからです。
ただ、本当のことは、言いづらいそうです。
例えば、霊的修行法をしている人であれば、なんとか乗り越えられそうな壁であるなら、正直なことを言う事もできるでしょう。
しかし、そうでない人には、霊魂としても、力のかけようがありません。
そのため、差し障りのない程度の発言に、とどまってしまうからです。
守護霊と密着するということは、担当する人間が今、どのような状態でいるかを知ることができます。
すると、軌道修正をさせようと、力をかけてくれます。
そのためには、守護霊から良く見えるような幽体にしたいものです。
あなたの幽体は大丈夫!?
幽体というのは、あの世で使う身体です。できれは健全にしておきたいものです。
なぜなら霊魂によると、「幽体の質により、死後生活する環境が決まってしまう」とのことです。それが自分に合う、ふさわしい所ともいえます。
しかし、天国と地獄のように分かれているとするなら、できれば天国のような所に行きたいですね。
僕の行っている、修行法に鎮魂法というものがあります。
鎮魂法は、霊的な身体を強化、成長させ、人間の魂をより進歩させることを主な目的としています。
幽体の強化、発達させるこが鎮魂法の初伝です。
また、幽体は肉体とダブっているので、その影響が肉体にも現れることも考えられます。全てが全てではないのですが、病気の原因が幽体にあったりもするのです。
果たして自分の幽体が、どのような状態なのかは、霊的な調査をしないと実際のところわかりません。
しかし、どのようなことが、幽体に影響を及ぼすのか、簡単に説明します。
その幽体から光のようなものが出ています。これを幽体オーラとします。
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霊的にあまり良くない環境で過ごした〈幽体が汚れて、オーラも小さくなってしまった〉
力のある人の祓いをしてもらった〈元に戻りました。良かったですね〉
人から恨まれて、その念が頭に刺さった〈頭の部分のオーラが弱くなってしまいました〉
また、祓いをしてもらった〈祓いだけでは、十分ではないようです〉
幽体の修復という霊的治療してもらった〈幽体の傷も消えオーラも頭から出ています〉
頻繁に霊体験をするようになった〈低い霊魂の影響を受けてしまったようです〉
悪い霊魂に憑依されてしまった〈こりゃもう、簡単には元に戻れません〉
神伝鎮魂法という霊的修行法を行った〈以前に増して幽体もオーラも強くなりました〉
達人の幽体〈参考)
運命は決まっているのか
人には運命というものが仮にあるとするなら、過去世、幽体の意識(記憶)が、そのまま、今回の人生に反映されてしまったということになります。
逆に、その運命を変えたいのであれば、幽体の意識を変えるしかありません。
「な~んだ、簡単なことじゃないか」と思われるでしょう。
しかし、自分は怒りっぽいから、「明日からなるべく人に対して、優しく接しよう」と思ったとします。
そのように、自分を変えようとする努力は大切であるけれども、我慢ばかりしていて、いつか爆発してしまう状態であるのなら、何も変わってないと言えます。
それが簡単にできないからこそ、霊的修行法というものが生まれたのです。
人は、放っておけば、必ず幽体の意識に振りまわされる。
必ず過去世と同じことを繰り返す。
そして、その傷はどんどん深くなる。
また、地上に生まれて来ることがあれば、自分の不幸に嘆く。
しかし、本人は、何も気づくことができない。
遥か何千年も昔から、どうすれば、この幽体の意識を変えることができるか?
これが、大きなテーマだったようです。
そして神人と呼ばれるような、偉大な指導者が作成したのが、霊的修行法なのです。
常に本物の霊的修行法というものは幽体の発達、強化、そして幽体の意識の変えること、つまり霊的カルマの解消ということなのです。
これが、基本となっているはずです。
それがなければ、意味がありません。
なぜなら霊的に見た場合、人間にとって、今いちばん大切なことは、幽体を良い状態にもって行くことだからです。
何にでも言えることですが、基本が出来てから、徐々に次の段階に進むべきなのに、それもせず、技ばかり追い求めるから、いたずらな霊魂が寄ってきてしまうのです。
超能力や霊能力よりも、とにかく幽体の健全化です。
求めるべきは、霊力です。
幸い日本では、禊法というのがありました。
それは、日本の古代から伝わる技法です。
神伝禊法の体系は、人間が何度も地上に生まれ、様々な人生を送り、その中での経験や行為によって、出来てしまった悪い部分を表面に浮き上がらせ、浄化しようというものです。
遠い昔、禊法という霊的修行法を行い、多くの人々が霊的部分を輝かせ、意識の高い霊魂と、交流していたことでしょう。
もし、現代で神伝と呼ばれる禊法を行えば、当時の修行者達が大勢、協力してくれるはずです。
日本には、そういった土壌ができているのです。
もし、現代人が、それを生かそうとすれば、輝かしい霊的文明が復活するはずです。
にもかかわらず、「霊的なことから離れて行くことを正しい」とする、今の人々の将来は、おのずと決まってしまうことでしょう。