幽体の意識・深層心理、潜在意識2
幽体の意識を変えること、つまり結果として、霊的カルマの解消につながるのですが、幽体の意識が表面(今の自分)に浮き上がらないことには、どうすることもできません。
死後の世界、幽界というのは環境が違います。
そのため、地上に生まれたことにより、つくってしまった悪い部分というのは、忘れてしまうこともあるそうです。
ただ、それは忘れているだけで、消えてなくなったわけではありません。
つまり、それが霊的世界での自分にとって、霊的な向上のマイナスになっているようです。
ということは、今回地上に生まれて、悪い部分が現れることは、ある意味でチャンスとも言えます。
それは肉体を持ち、物質的な環境の中でつくってしまった悪い部分は、同じ環境でないと解消できないからです。
神伝禊法にしても、実習している人はわかるはずですが、辛いことも多いのは事実です。
ニコニコ楽しい修行など、期待しない方が良いでしょう。
何しろ、自分の悪い部分がどんどん出てくるのです。
しかし、辛いからと言って、目をつぶって避けてしまえば、先送りにしてしまっただけです。
借りたお金を返すのが面倒だからと言って、返さなければ利子は膨らむ一方です。
誰も肩代わりなどしてくれるはずがありません。
イエスキリストが言ように、「汝の蒔いた種は、汝で刈り取れ」ということです。
死んでしまってから、「もうちょっと、頑張っていれば良かった」と後悔したところで、もう遅いのです。
また肉体を持って、生まれることがあるかどうかは、わかりません。
こんな話しばかりだと、まるで幽体は悪の権化と思われてしまいますが、そうでもないのです。
幽体の意識というのは、決して悪い部分だけではありません。
何度も地上に生まれて来ていろいろな人生を送ったわけですから、良い部分も必ずあります。
誰にでもです。
まず大事なことは、今回の人生において足を引っ張ってしまうであろう、霊的カルマの解消なのですが、同時に良い部分を表面に浮かせることです。
うまく生かして、自分の人生を良い方向に持って行くのです。
それを可能にするのが、神伝禊法という体系です。
しかし実際に良い部分とは、どういった部分を指して良いのか、一律には語れないところがあります。
あくまで、人間的な価値観で考える幸福とは異なります。
ある人は、事業で成功すことがプラスになるかもしれないし、他の人にとってはマイナスになるかもしれないからです。
霊的側面を考えなければ、「仕事でお金を儲けた」ということは、誰にとっても良い事であると思います。
それは、生活の安定につながるからです。
しかし、過去世で商売にたけていたことにより、人に恨まれてしまったとか、家族を犠牲にしたのであるなら、悪い方向に、転がり出しているとも言えなくもないのです。
人の人生は様々で、ひとりひとり背負っているものが違います。
それなのに宗教的な教えというのは、単純に「人は、こう生きなければいけない!」と語りがちです。
確かに、誰でも生きるための道しるべのようなものが欲しいものです。
それがないと不安かもしれません。
せっかく宗教的世界は、人の霊的部分を語ることができるのだから、自分を知ること、つまり過去世というものをはっきり伝えて欲しいと思っています。
それがないと、みんな自分の人生の価値を見出すことができずに、チャンスを逃してしまうことでしょう。
霊的修行法・トレーニングの本質
修行法、霊的トレーニングというと、みなさんは疑問に思われることがあるでしょう。
たぶん、「目をつぶって座っていたり、滝に打たれることに、何の意味があるのか?」
こうしたことを、疑問に思うのではないでしょうか。
中には宗教的な意味合いではなく、社員教育の一環で、いやいや座禅を行う人もいるだろうし、単純に「心が落ち着くから・・・」ということで行っている方もいます。
何も考えずにただ目をつぶっていれば、リラックスすることができます。
また、滝行などの過酷な状態に自分を置くことにより、何らかの鍛錬になるのかもしれません。
根気強くなる部分もあるだろうし、やり遂げた充実感に浸ることもできでしょう。
しかし、それはあくまで心の変化でしかありません。
心の変化を求めるのであれば、何も宗教的、霊的な行法ではなくても、武道やスポーツでも同様なことが言えます。
ここでは、あくまで霊的なことを前提とした、修行法に触れたいと思います。
実際に修行と言いながら、瞑想や滝行などを行っている人でも、「どうして霊的な力がつくのか?」という簡単なことさえ知らない人も多いのです。
霊的修行法というのだから、自分の霊的な部分の変化がなければ、意味がありません。
心とはあくまで、人の表面的な部分です。
心が、霊的な部分と関係がないわけではありませんが、心の変化が、霊的な変化につながるとは限りません。
それは、ヤクザ映画を観て、肩を怒らせながら、映画館から出て来てくるようなもので、その人が急にケンカが強くなったわけでもなく、ヤクザ者になったのではないのです。
霊的修行法とは、霊的な部分を変化させることを目的としています。
つまり、何らかの行為によって霊的なエネルギー、霊的な力というものが流れていないと、霊的な変化がないのです。
単純に、瞑想や滝行するから霊的な力がつくのではなく、そこに第三者、いわば霊魂の関与があるから、霊的なエネルギーが流れて来ます。
いかにひとりで、どう力んでみても、自分の力で変化するのは、間気(エクトプラズム)程度ではないかと思います。
肉体を丈夫にするのは食品からの栄養であるように、霊的身体の幽体には、「高い幽気」と呼ばれるものが栄養となり、力となるのです。
実際に霊的修行法を行わなくても、ある場所に霊的なエネルギーが流れていれば、そこにいるだけでも、変化を起こします。
それが高いエネルギーであれば、人にとって有難いだろうし、低ければ残念としか言い様がありません。
神伝禊法という霊的修行法の初伝は、水を使います。
水というものに、霊的な力を流してもらうのです。
霊的な力が流れて来なければ、単なる水浴びになってしまいます。
そのためには、霊魂に「これから水をかぶりますよ」「霊的な力を流して下さい」と伝えなければなりません。
しかし、霊魂へは、人間同士の会話のようなコミュニケーションが難しいのです。
そこで霊的修行法の中に、作法というものがあるのです。
二拝したり二拍手、それが関与する霊魂との合図、信号となり約束になるからです。
難しいのは、霊的に高い霊魂が来てくれれば良いのですが、いたずらな霊魂が、関与してしまう場合があるのです。
普通の人には、見分けることなどできません。
また、いたずらな霊魂が来た方が、霊能力が目覚めやすかったりもします。
有頂天になり、気がついてみたら、いたずら霊魂の仲間入り、となってしまうのです。
大事なことは、霊的修行法を行うことにより、確実に霊的なエネルギーが流れていること。
そして、それがより進歩した霊魂からの流れでなければなりません。
霊的修行法の作法
霊的修行法、霊的トレーニングには、作法がつきものです。
その作法ひとつひとつに意味があります。
しかし、伝統的な修行法というものは、長い年月のうちに、変わってしまう可能性があります。
創始者がいかに偉大で実力があっても、その後継者たる弟子が未熟であったり、また作法の意味すら知らずに、勝手に変えてしまうことも考えられます。
例えば、印の組み方や、拍手など、自分なりに「こうやった方がかっこいいなー」なんて変えてしまったとすると、もう価値がありません。
そのあと弟子がついても、作法の間違えに気がつくわけもありません。
その後、秘伝と呼ばれ、伝統的に引き継がれているかのようでも、力はもうなくなってしまっている可能性もあるのです。
元は確実に成果のあった修行法でも、時の流れともに、変わってしまうことが多いといえます。
霊魂は、作法ひとつひとつの幽体または、幽体から発するオーラの動きを見ています。
「二拍手の後には、必ず印を組むから、その時に力をかけよう」などと準備しているのです。
それなのに、違う作法を行えば、結局、空振りに終わってしまいます。
また、祝詞と呼ばれるものがあります。
よく神主さんが結婚式や、儀式などで唱えるものです。これは言葉を発します。
物質的な音というものは霊魂には伝わりません。
しかし言葉、音を発すると同時、に霊的、幽的なものが出ます。
それが、霊魂に伝わるのです。
同じ祝詞を唱えるにしても、人により力の差が出てしまうことがあります。
それは、人の想い、想念というのは、霊的な力を持つからです。
聞く人には、いかにもりゅうちょうで「うまい!」と言われる祝詞でも、それが、ただ自分に酔っているだけなら、何の力もありません。
それとは逆に、ゆっくりとして、言葉のひとつひとつを確実に発して、聞く人には「何だか素人っぽい」と思われる方が力があったりするのです。
そこには、言葉ひとつひとつに想いが込められ、それが力となって、霊魂に届き、響くからです。
作法も、言葉を発するにしても、確実に力を持つのは、やはりその想念が、常に高い存在に向いていることが重要です。
最近では、「霊的なものなど一切認めていない」という神主さんもいらっしゃるようで、そういった方の祓いは、単なる形式的なもので、霊的には、何の力もないといえましょう。
霊的身体・霊体
霊的身体というのは、幽体のみではありません。
人間には、肉体とダブった幽体の他に、霊体というものもあります。
しかし、肉体とはダブっていません。
よく霊的に敏感な方は、霊魂と波長が合うなどと言いますが、霊的法則というのは、霊的な身体の状態が近いほど交流しやすいのです。
ということは、地上をさまよい、人間にちょっかいを出している霊魂と、波長が合ってしまうのであれば、それなりの幽体であるといえます。
余計なお世話かもしれませんが、霊的修行法、トレーニングにより、ぜひ幽体を強化してもらいたいと感じてしまいます。
霊体という霊的身体は、人が、この世に生まれた時点では有りません。
人が成長する過程において誕生します。
しかし、霊体というものは、通常の生活では発達しないと考えていいでしょう。
しかし霊的修行法により、意図的に、霊的身体を発達させることもできるのです。
人の幽体に意識があるように、霊体というものにも意識があります。
霊体には、幽体のような過去世という低い部分がありませんから、その意識は常に高いといえます。
霊体の意識が、「正しい」と言えば、それが真理といえるのです。
ただ細かいことを言えば、あまり発達していない霊体と、イエスキリストやお釈迦様というような、霊的指導者の幽体では、幽体の意識がはるかに高いということもあります。
みなさんの守護、指導霊というのは幽体で活動しています。
ただ、地上の人間の幽体の状態とは、比べものにはならないことは言うまでもありません。
それでも、まだその上をいく、霊体の霊魂がいるのです。
霊魂学では、上級霊魂と呼んでいます。
人は死ぬと、必ず幽体で活動することになります。
しかし、幽体は肉体のように衰えて、「死」に至るというものではありません。
そのため、人が地上で肉体を失い、幽体に移行するような形で、幽体から霊体の存在になるということはありません。
成り行きのようなものではないのです。
「霊的な進化」と言った方が良いと思います。
もう、霊体の霊魂の意識は地上の人間の意識とは、完全にかけ離れています。
守護、指導霊が、霊体の霊魂の指示で動いているということを考えれば、想像がつくのではないでしょうか。
霊体を発達させると、霊体の存在の霊魂の目に止まるようになります。
すると守護霊を介さずに、直接働きかけてきます。
こうなると、地上の人間と守護霊の関係が、逆転してしまうのです。
霊的世界の高低は、その霊的身体そのもの、と言えるようです。
未発達霊魂
地上という所は、肉体を持った人間以外にも、様々な霊魂がいます。
守護霊を含めた人間の霊的進化を願っている霊魂ばかりなら良いのですが、そうでもありません。
世間で言うように、死後の世界が夢のようにすばらしい世界であるなら、わざわざ地上に、とどまる訳がありません。
なぜ、地上にいるのか?
霊魂によって、経緯は様々であると思いますが、中には、行くべき所に行って、地上にまた戻って来る霊魂がいます。
それは本来の生活の場である環境が、その霊魂にとって、あまりにも辛く苦しいからではないでしょうか。
ある意味では、かわいそうな霊魂とも言えます。
しかし、地上にいても何の楽しみもない。
そのため、人間に干渉したり、イタズラしたり、脅かしてみたりと、好き勝手なことをしています。
幽霊とか心霊現象というものだけの数が、不真面目な霊魂の数を指していません。
もっと沢山います。
霊魂学では、地上でふらふらしている霊魂を、未発達霊魂と呼んでいます。
それは、幽体という霊的身体が、共通して未発達だからです。
善霊、悪霊などと言って、霊魂を分ける方もいらっしゃいますが、それは霊的視野の狭い自分の都合に合わせた定義でしかありません。
良い霊魂、悪い霊魂など霊的真実を知らない人が、語れるものではないのです。
未発達な霊魂の中には、本当に真面目な霊魂もいます。
イタズラ目的ではなく、一生懸命になって力を貸そうとしています。
しかし、もともと幽体が未発達であるのだから、干渉されている人にとって、霊的に見れば迷惑なことなのです。
つまり、地上の人間にとって良い影響がないからです。
確かに、何らかのご利益や都合の良いこともあるかも知れません。
しかし、それでは人間にとっての霊的進歩には、つながりません。
勝手に人間に干渉してくる霊魂は、自分が不幸であることは承知しています。
それなのに、心の底から、地上の人達が幸せになって欲しいと思うわけがありません。
考えてみても、世の中に「いくら自分が不幸になっても、回りの人が幸せになればそれだけで良い!」などと言う人がいるでしょうか?
必ず自分の幸せが、最優先です。
幸せになれないなら、他人の足を引っ張りたくなってしまうのが、本心であると思います。
人間からは霊魂が見えません。
しかし、未発達な霊魂からは、肉体とダブった幽体が見えてしまいます。
やりたい放題といっても、言い過ぎではありません。
人間が霊的な真実を知らないうちは、好き勝手なことを続けて行くことでしょう。
守護霊の考え
守護霊は地上の人間を、どのように見ているのでしょうか?
ここでは、地上でふらふらしているイタズラな霊魂ではなく、人間の霊的進化を願っている、本来の守護霊について触れてみたいと思います。
守護霊と言われている霊魂は、地上の人間を指導することにより勉強しています。
それは、守護霊とて完全ではないからです。
こんなことを言うと、「守護霊も所詮、未熟な霊魂なんだ」と思われる方もいると思いますが、あくまで地上の人間的レベルでの未熟、という意味ではありません。
守護霊も、地上で様々な人生を経験しています。
そして他界後、霊的世界で先輩の霊魂からいろいろ教わり勉強したのち、地上の人間の守護霊として活動しています。
守護霊は、人間の霊的な部分というものをよく知っています。
そのため霊的なことを含め、広い視野で、人間の人生を考えることができます。
守護霊の過去を調査すると、指導する人の人生のテーマが見えてくるそうです。
それは、指導しながら守護霊は「どうすれば、最も良いのか?」と、一緒になって考えているからです。
それが勉強になります。
守護霊は、上級霊魂という存在から指示を受けます。
それは、適当に選んでいるのではなく、指導することにより、守護霊自身の向上が得られると考えるからです。
「今度、こういった個性が地上に生まれるから、君が守護霊をやってみないか?」と、こんな感じであると思います。
余談になりますが、僕の守護霊は、今回はじめて守護霊という立場についたそうです。
そのため「守護霊としての仕事がまだまだ不得手であり、なれていない」と言っていたそうです。
おまけに、僕は出来の悪い人間だから、さぞかし苦労していることと思います。
守護霊はある程度のクールさが必要とされています。担
当する人間が泣いていても、涼しい顔をしていられるのでなければ務まりません。
それは、地上の人間の感情に流され過ぎてしまうと、結果として、正しい方向に導けなくなってしまうからです。
これが、「ご利益ばかり求める人間には、手を貸さない」ということなのです。
しかし、正しい方向に進んでいるのであれば、喜んで協力してくれます。
正しい方向というのは、その人の霊的進化につながることを指します。
それが、霊的なカルマの解消であったり、霊的な進歩につながる場合です。
もし、守護霊自身で指導しきれない場合は、専門の指導霊という霊魂に、協力を依頼します。
例えば、担当する人が、霊的なことに興味を持ったとします。
守護霊はなるべく良い宗教的、霊的な集団や、真面目な指導者に逢わせることを考え、つながりを持つ人と、接触できるように働きかけたり、様々なことを試みます。
そして運良く、霊的修行を行うことになったりすると、地上で生活していた時に、霊的修行をかなり積んだ守護霊以外では、指導しきれなくなる場合が出てきます。
そこで、守護霊は上級霊魂に相談します。
「私の担当する人間が霊的修行に興味を持ちましたので、修行者を専門に指導する指導霊に協力して欲しいのです」
そして、新たに指導霊が参加するのです。
霊的な修行の場合は、かなり奥が深いので、ひとりの人間に、何名も指導霊がつく場合があります。
そうなると、複数の霊魂が協力して、霊魂団というものが出来上がってしまうのです。
どなたでも、必ず守護霊という存在がいます。
いちばん頼りになる霊魂と言えます。
とにかく自分の幽体を成長させ、守護霊の目に止まるようなることです。
そうすれば、守護霊が直接、働きかけることができます。
守護霊からの想念を、自分の人生に生かすことが出来れば、確実に霊的進歩が得られます。
それが守護霊の目的であり、人間に対する願いであります。
守護霊からのメッセージ
守護霊は、どのように、担当する人間に対し交流するのでしょうか?
当たり前のことですが、守護霊は肉体を持っていません。
幽体の存在です。
人と人が会話するようなことも出来ないし、自分の存在を表現することもできません。
それは、物質の肉体という、共通の身体があるから可能なことなのです。
世の中には、「突然、、神や霊魂が語りかけてきた」という人もいます。
そういった方は、特別と言えます。
しかし、決して喜ばしいことではありません。
はっきり言って、異常です。
本来、肉体を持って活動するということは、幽体の存在である霊魂の声が聞こえたり、見えたりするようには出来ていないからです。
見えなくて当然、聞こえなくて正常なのです。
実は、未発達霊魂の中には、そういったテクニックを使う霊魂もいます。
いわゆる憑依すると、簡単にできます。
これは、それほど難しいことではありません。
やろうと思えば、守護霊だって出来ると思います。
なぜやらないか?
それは憑依するということが、危険であることを十分認識しているからです。
未発達なイタズラ霊魂は、そんなことはお構いなしです。
スキがあれば、どんどん入ろうと試みます。
その人が後でどうなろと自分には関係ないし、地上の人間など単なる遊び道具のようにしか思っていません。
つまらなくなくなったら、あとは捨てるだけです。
そんな無責任な霊魂を、あがめたてまつる必要などありません。
とにかく、排除すべきです。
「わたしは、守護霊である」なんて、聞こえたら、ニセモノだと思って間違いありません。
僕も、今ではこんな偉そうなことを言っていますが、せめて霊的進歩につながるであろう、守護霊からのメッセージを確実に知ることはできないのかと考えていました。
しかし今は、そんなことが出来なくて良かったと思っています。
守護霊というのは、肉体を失ってかなり経っています。
霊的な知識も経験もあります。
その守護霊から直接、未熟な自分に対して「ああしろ、こうしろ」などと言われて、実行することが出来るでしょうか?
「守護霊の言っていることは確かに正しい」と心の中で思っていても、
「そんな簡単に自分は出来ない」
「もう、あれこれ言わないでくれよ!」となってしまうのではないでしょうか。
そうなると守護霊との接点が切れてしまいます。
守護霊は、想念というものを飛ばしてきます。
だから、「ふと、思い立った」というものが、もしかしたら守護霊からのメッセージかも知れません。
人の意識は、複雑です。
表面の意識、幽体、霊体の意識、そこに未発達な霊魂などに憑依でもされてしまったら、正常でいられるわけがありません。
地味な、守護霊からのメッセージを期待しましょう。
他者からの念、想念
「あなたの幽体は大丈夫!?」で人に恨まれると、その念が、幽体に損傷を与えると言いましたが、それではどう対処すれば良いのでしょうか?
人の想いには、力があります。
それは単に「悪口を言ったから、相手の心が傷ついた」ということではありません。
ほとんどの人は、自分の意識や念の力など、まるで考えることもなく生活しています。
まして、自分の霊的な向上など全く興味がありません。
そのため恨みや怒りの念は、かなり低くなってしまうのが現状です。
たとえ自分に悪意などがなく、言葉に出さなくても、思った瞬間に相手の幽体に突き刺ささってしまう場合もあります。
本人も相手も、ほとんど気がつきません。
それは、幽質という霊的なものだからです。
しかし、確実に幽体を傷つけてしまいます。
肉体と幽体というものは、ダブっています。
幽体の不調が、肉体の現れる可能性があります。
実は、これが「呪い」の正体なのです。
例えば、「あいつが憎らしいから、呪ってやる」と考えたとします。
目の前にいつも相手がいて、常に一緒にいるのなら、何らかの影響もあるかもしれませんが、確実に相手に届かないと効力はありません。
しかし困ったことに、その低い念をわざわざ運んでくれる、おせっかいな霊魂がいます。
そうなると、力を持ってしまいます。
誰でも、呪ってやりたいような人はいると思います。
しかし、自分が地獄というような低い世界に入る覚悟がなければ、興味を持たないことです。
霊的世界は、そんなに甘くありません。
人が社会という中で生活していくためには、どうしても他者からの念を受けてしまいます。
なるべくなら、人から恨まれることのないようにしたいものですが、こればかりは、仕方のないことだと思います。
それは人が生きるということ自体が、いつも何らかの犠牲で成り立っているからです。
社会の仕組みがどうこう言うよりも、その根本が肉体にあります。
肉体を維持していくためには、食物を取らねばなりません。
一生食べて行けるだけの保証がどこにもない以上、自分が生き長らえるためには、人一倍、欲をかかないと生きられないからです。
また、世の中には、様々な人がいます。
良くも悪くも、考えや意見は人それぞれに違うものです。
自分が正しいと思っていても、必ずしも、相手に歓迎されるとは限りません。
人が生きるということは、他者と関わりを持つことですから、幽体が傷ついて当然と言えます。
しかし霊的な法則というのは、人間にとってあまりにも残酷です。
それは、自分の幽体の状態で、死後生活する場所が決まってしまうからです。
ほんの数十年、地上で生活しただけで、いつのまにか幽体はボロボロ。
幽体には、肉体のような自然治癒力といったものは、幽体に力がないと期待できません。
幽体で生活する方が、比べものにならないほど長いというのに、下の方からの出発になってしまいます。
これでは、あまりにも悲惨です。
人は肉体という足かせがある以上、どんなに善人ヅラをして、立派な言葉を並べてみても、必ず肉体に振りまわされてしまいます。
そこで、今のうちから幽体を強化することです。
神伝と呼ばれる霊的修行法というものが、「救いの法」といわれる由縁でもあります。
霊的修行法により、幽体にパワーをつけます。
多少の念など、常に跳ねつけられるくらいになってしまうことです。
仮に攻撃的な念で損傷しても、霊的修行法により幽体の修復ができます。
これは、あくまで霊魂の協力があってこそ可能といえます。