霊的な知識
知識があるということは、大変立派なことです。
しかし、霊的世界の知識があっても霊的な成長とは、直接的には関係がないようです。
確かに正しい知識であれば、知らないよりは知っていた方が良いのです。
しかし、残念ながら、正しい知識というものは、一般の人ではなかなか判断できないものです。
たとえば、書店には、たくさんの霊的な事柄を記した書物が並んでいます。
しかし、それぞれに異なっている内容であるということは、 必ず、間違ったことを書いている本がたくさんあるということです。
「だって確かめるすべがないじゃないか!」と思われるでしょう。
実は霊的な成長、発達するということは、自分自身でその確信が持てるのです。
例えば、「気」というものは世の中では様々に言われてますが、 霊的修行法というものを深めてゆくと、「気」に対して敏感になってきます。
「気」というものの高低が、段々とわかるようになるのです。
こういった能力というか、知覚というものは、特別なものではありません。
これは、自分の霊的成長に伴い「合う、合わない」という、ごく自然で、当たり前なことなのです。
ただ、間違えてはいけないことは、ここで「高い気は、気持ちが良い」と書いたとします。
それは確かに、心地良いものだったりもします。
しかし、暑い屋外から冷房が良く効いて、静かな音楽でも流れている室内に入ったとします。
誰でも、気持ち良いと感じるはずです。
だからといって、そこに高い「気」が流れているというものではありません。
ここに、知識というものの限界があります。
ただ気持ちが良いからといって、必ずしも霊的な高低を語れないのです。
肉体というものは物質であるので、物質的なものに作用されてしまいます。
覚せい剤の一発もやれば、通常ではない精神状態になることもあるし、幻覚を見ることもあでしょう。
覚せい剤でなくても、お酒を飲んで気持ち良くなる人や、気持ち悪くなる人もいます。
それは、あくまで物質により、肉体が反応、作用しただけであり、霊的な変化とはいえません。
霊は、物質ではないからです。
しかし、細かいことを言えば、霊的な変化が全くないとも言えないのです。
それは表面的な意識の変化は、心の奥の意識を刺激します。
また、表面の意識がしっかりしていない状態というのは、 霊魂というものから、影響を受けやすい場合もあるのです。
影響を与えるであろう霊魂は、ほとんどイタズラな霊魂なので、 なるべくなら、自分を見失ってしまうほどの精神状態をつくらない方が良いと思えます。
修行の過程、段階で「こういった現象が必ず起こる」という人もおりますが、実際には、 「不思議なものが見えた」とか、「このような心理状態になった」ということが、共通して起こることはありません。
確かに、何も起こらないと言えませんが、ひとりひとり、違うものであると考えた方が良いと思います。
なぜなら、人によって、心の奥に沈んでいる心情が異なっていますし、全く同じオーラをしているわけではありません。
そのため、起きてくる現象、が人によって異なるものなのです。
霊的な成長を目的とした修行法というのは本来、神秘現象を求める体系ではありません。
神秘現象ばかり求めていると、寄ってくるのはイタズラな霊魂です。
「いろんな不思議体験をした」などと浮かれていて、気がついてみたら、手の施しようがない状態になってしまわぬように注意が必要です。
霊的分野に関しては、目に見えない分野のために、世間で出まわっている本をいくら読んでも、それが正しいとは限りません。
むしろ、そうした知識など、あまり無い方が良いとも言えます。
未体験な世界を、頭の中で先につくってしまっては、邪魔になるだけなのです。
最近の若者は・・・
「最近の若者は・・・」と、年配の方から良く聞かれる言葉です。
だからといってここでも、若者について、あれこれ言うつもりはありません。
考えてみれば、いま年配の方々の若い頃は、先輩から 「今の若者は良くできている」などと言われていたのでしょうか?
きっと、同じことを言われていたのだと思います。
よく「最近の若者は個性がない」「マニュアル通りにしかできない」という言葉を耳にします。
確かに、そういった部分もあるようにも思えます。
しかし、僕達の受けた教育というのは、同じ制服を着て、髪の毛の長さ、や靴下に至るまで事細かに決められ、 「勉強しろ!勉強しろ!」とただの暗記ばかりの学問を、押し付けられてきたような気がします。
それで急に今度は「個性がない」とか「応用力がない」と言われたって、「しょうがないよー」としか言い様がありません。
ただ、そういった教育が、全て悪いとも言えないのです。
社会というものは、多くの人と協調していかなければならないものですし、わがままなことばかり言っていては、 将来、自分が困ってしまうのは明らかです。
別に現代の子供というものは、突然変異で生まれてきた訳でもありません。
ただ、その時代や育った環境によって、大きく変わってしまうのも事実です。
逆に大人が悪いからと言って、何の社会性もない子供達が考えた社会が良いわけでもありません。
例えば、「仕事や、勉強などのわずらわしいことはやめて、一日中楽しいTVゲームをやってもいい」という法律をつくったとするなら、 それでは社会が成り立たないのです。
若い人でも、しっかりとした人も多いですし、何十年も人生経験を積んだわりに、どうしようもないと思えるような人もいます。
しかし理屈ではなく、経験というものは何事にも勝るものです。
年配の方々は、そういった貴重な経験というものを生かして、一方的な押し付けや偏見ではなく、若い人達のことも理解しながら、見守って頂きたいと思います。
いずれにせよ、今の若い人達が社会をつくっていきます。
そして、その環境で子供達が育っていくのです。
親が子供の将来を想う気持ちはわかります。
しかし、「あれはダメ、これもダメ」と一方的に押し付けられてしまうと、親というものを、わずらわしく思えたりもするものです。
自殺する子供は「弱い」とか、殺人を犯せば「頭が変だ」などと単純に片付けてしまうのでなく、 心の奥に潜んでいるものはひとりひとり違うのだから、一律にこう生きなければいけない、というようなものではなく、 子供の個性、人間というものを、もっと理解することが大切なように感じます。
高い霊魂、低い霊魂
このサイトでは、霊魂を「高い霊魂」「低い霊魂」という言い方をしていますが、 その違いは、一体どういうことなのかと疑問に思われることでしょうか?
まず、霊魂というものは「無」ではありません。
人が肉体を持って存在し、活動しているのと同様に、霊魂は物質ではない霊的な身体で活動しています。
霊魂というものは、それぞれに、その霊的な身体に違いがあります。
肉体的に考えると、体が大きいから偉いのでもなく、 小柄だから悪いわけでもありません。
たまに、肉体的な特徴で、その人の性格などがわかることもありますが、 「必ずこうである」とも限りません。
しかし、霊魂の場合となると、霊的な身体が、そのまま自分を表現しているようなものと言えます。
例えば、地上でふらふらし、人間にイタズラをしている霊魂の幽体は、未発達であるし、 オーラもあまり出ていないものです。
損傷した幽体はそのままだし、ほとんど高い「気」に触れることもなく過ごしています。
また、本来の守護霊と呼ばれている霊魂は、イタズラな霊魂とは格段に違います。
人間同士の場合、その人を見ただけでは、内面的なことはわからないものですし、見た目で判断してはいけないことです。
取り分け、霊的な成長度合いを指摘しているのであって、霊的身体が未発達な霊魂全てが、悪い霊魂であると決めつけてはいけないものです。
世の中の人を見ればわかりますが、手のつけようのない悪人というのは、少ないものです。
自分を振り返ればわかるように、心の中には、いろんな思いがあるはずです。
「ちょっと魔がさした」という言葉があるように、犯罪を犯すのは悪いことですが、 そういった部分を押さえきれなかっただけなのかもしれません。
地上の人間が霊魂になると考えるのなら、特別不自然なことではないのです。
肉体を失った霊魂というのは、地上をフラフラして人間にちょっかいを出している場合ではなく、本来の生活の場所に行くべきです。
しかし、何も知らないから、そうするしかないのでしょうか。
また、人間に対し、自分の行為がどれほどの悪影響をもたらすのか、知らないだけなのかもしれません。
人が肉体を持ち、地上に生まれたからといって、地上のことを、全て理解するわけではないのと同様に、死んだからといって、霊的世界を全て、理解しているわけでもないのです。
確かに、地上の人間に比べれば、「死」というものを実感しているわけですから、無知な地上の人間よりは、真実を知っていると言えます。
霊的な高低というものは、霊的身体の違いでもありますが、高い霊魂というのは、より真実を知っている存在と考えた方がいいと思います。
高い意識
意識というものは、感情ではありません。
霊魂も人間同様、それぞれに個性があります。
そして感情もあります。
感情というものは、何らかの刺激により、意識が反応することです。
小さな子供は、感情が豊かであると言います。
好きな時に笑って、気に入らない事があれば大声ですぐ泣く。
それは、自分を素直に表現しているのであって、 余計なことはあまり考えていないことです。
人は成長するにつれ、その感情をうまくコントロールしなければ、人間関係を悪くしてしまう場合があります。
上司に注意されたからといって、多くの社員のいる中で、大声で泣いていると、「みっともない!」と言われてしまうだろうし、 怒るとすぐに暴力を振るうのであれば、警察に捕まってしまいます。
いくらおもしろいことがあったからといって、シーンと静まり返った図書館で大声で、笑ってしまえば、 ひんしゅく買うことになります。
必ずしも、そういった感情が悪いということでなく、自分のいる環境、 おかれた状況で、自分の気持ちをストレートに表現してしまったことが悪いのです。
オリンピックで優勝して、表彰台で、すました顔をしていれば、逆に「あいつは愛想がない」と言われてしまうでしょう。
その時は、やはり泣いたり笑っていた方が、良い印象を与えます。
例えば、人間でありながらも、神のような人がいたとします。
その肉体とは別の霊的身体が、高貴であろうから、言うまでもなく、当然意識も高いのです。
意識が高いということは、必ず「こうである」と決めつけてはいないでしょうか?
まさに人の姿であって神のような人であるのなら、 「心はいつも平穏で、何でも許してくれて、怒ることなど決してない」というようなイメージを持っている人もいることでしょう。
確かに、どうでも良いと思えるようなことで、心を揺らしてしまう普通の人とは、違うでしょう。
ただ、感情がないのではありません。
うれしいと感じることもあるでしょうし、泣きたくなることや、怒りを感じたりもするはずです。
それは、それぞれに心というものには、感情あるからと言えます。
自分の感情を極端に押さえているから、意識が高いわけでもなく、感情をなくしてしまえば、異常としか言い様がありません。
神人、生き仏と言われるような人であれば、とにかく泣いていようが怒っていようが関係なく、意識が高いのです。
感情とは本来備わっていて当然のものであって、感情のコントロールの仕方や表現により、人との関係において、良くも悪くもなります。
感情は、自分の意識より発せられたものです。
カッとなって自分を見失い、人生を暗くしてしまうことにつながるのであれば、やはり、押さえられる自分でなければなりません。
怒るから悪いのでもなく、笑ってばかりいると良いのでもなく、感情の動きだけでは、意識の高低は語ることは難しいものです。
感情ではなく、その感情を表現している意識の質が問題なのです。
人が生まれるワケ
今、「生まれて来て本当に良かった!」と思っている人もいれば、「何で、自分は生まれてしまったのか?」と嘆いている人もいるでしょう。
それでは、人はなぜ生まれてくるのでしょうか?
子供は両親から生まれて来ます。
具体的に言うとお母さんからです。
突然湧いて来るものではないことは、皆さんご存知です。
子供が勝手に湧いてくるのであれば、もしかしたら、そこに、本人の意志や、何らかの目的があるのではないかとも考えられます。
しかし、子供が生まれるのは男女がセックスして、その結果として生まれて来ます。
子供が「生まれたいよー」と願うから、セックスするわけではありません。
これも、皆さんご存知だと思います。
ということは、子供の意志が反映されているとは考えにくいものです。
子供が「僕は、好き好んで生まれてきたんじゃない!」と言うのであれば、もっともな主張です。
それでも、親として子供にそんなことを言われれば、無性に頭にくるものです。
「誰のおかげで育ったんだ、メシ食わせねぇーぞ!!」と言いたくもなります。
こんな話しをしていると、収拾がつかなくなってしまいますが、肉体のみで考えると、人が生まれるのは親の欲求であり、単に子孫繁栄ということが目的となります。
それとは別に、人間を霊的な部分も含めて考えるならば、人が生まれる本当の理由が見えてきます。
肉体のみで生きている人は、ひとりもいません。
人は肉体のみで存在するのではなく、霊的身体をだぶらせています。
この霊的な身体が、肉体から完全に離れてしまうことが、いわゆる人間の「死」というものです。
ということは、肉体が誕生すると一緒に、霊的な身体もなければならないことになります。
そこで、この霊的身体が、肉体の誕生と、どのように関わるかを知ることにより、謎が解けてきます。
この霊的身体も何もないところから、突然湧いてくるものではありません。
地上ではなく、いわゆる、あの世の霊魂の幽体という霊的身体の一部が、肉体の誕生と一緒に入ってきます。
肉体が、親の遺伝を引き継ぐように、幽体という霊的身体も、元の霊魂の一部が再生している訳ですから、霊魂としての性質、本質というものを引き継いでいるのです。
霊的な部分のみ言えば、自分の両親とは、あまり関係がありません。
しかし両親がいなかったらとするなら、「今の自分は、この世に存在しなかったのかもしれない」と考えるのであれば、ある意味では正しいといえます。
それはお母さんが子供を産まなければ、今の肉体を持ち、霊的な個性を含めての自分は、存在しなかったのです。
仮に、両親が子供をつくらなければ、「自分はこの世に存在しなかった」というと、それは違います。
人には霊的カルマというものがあります。(霊的カルマというものを説明すると長くなるので、人が、地上に生まれて来る必然のようなものと考えて頂くと良いと思います)
ということは、今の両親が自分を生んでくれなかったとしても、別の両親のところから別の肉体をもち、同じ霊的な性質を持った自分が、生まれてくる可能性は十分考えられます。
それでも、生まれて来る環境や親の遺伝が異なるわけですから、全く同じ人生を送るとは考えにくいものです。
しかし、霊的に引き継いでいるものは同じです。
心の深い部分にある自分というものは、そのまま表現されます。
そうなると、今とは全く違う容姿で、似たような人生を歩んでいるかも知れません。
本来自分は、生まれるべくして生まれたのです。
もし、自分が生まれたことに対して、一方的に両親に恨んでいるのであれば、それは間違いです。
自分の両親には、感謝しなければなりません。
と言いたいところですが、世の中には、簡単に自分の子供を殺してしまうような親さえいます。
そういったことを考えると、生まれて来たことが、不幸であるかのように感じられることもあります。
子供はおもちゃではないのですから、子育てが嫌になったからと言って、簡単に放棄することは正しいことではありません。
たとえ今の自分が良い人生と思えても、悪い人生と感じても、霊的に見た人間というものは、未熟です。未熟だからこそ生まれて来たといえます。
この未熟な部分を何とかしないことには、なかなか霊的な成長を望むことはできません。
心配いらない!?
人というものは、どうしても、まわりと比べてしまいがちです。
勉強、学歴、収入、容姿・・・。
人間というものを霊的に見た場合、そんなものは全く関係がないのです。
世間では、人の価値基準を考える時、常に、まわりの人と比べて判断してしまうものです。
比べる対象が狭ければ狭いほど、つまらないことにこだわってしまうものです。
ある子供が学校でお漏らししてしまい、それを笑っている子供達を 見て、「お前だって、昨日までオムツをしていたくせに」と大人なら言いたくなるものです。
少し離れたところから見ると、どちらも似たり寄ったりです。
人は未熟だからこそ、生まれて来るのです。
はじめから完全なら、その必要がないといえます。
「こういった人生を送れば、良い人生である」と言う時、それは、世の中の人達の価値判断だからです。
勉強や仕事が、出来る出来ないということなどは、社会への適応力のようなものでしかありません。
もし勉強ができなければ、勉強すれば良いことだし、仕事が遅いと言われてしまうなら、 どうやって能率良く仕事をすれば良いのかを考えれば解決します。
しかし、そんなことで、霊的に見た人間の未熟な部分は、ほとんど変化ありません。
人の人生において、霊的な部分のみを語るとすれば、大事なのは、その人自身の未熟な部分を、どうするべきか?なのです。
それでも、人が生きて行くためには、食べなければならず、何らかの収入を得る必要があります。
ここに、人が生きる上での難しさがあります。
「人は精神、意識を向上させなければいけない」などと、いかに綺麗事を言ってみても、現実は、肉体を維持するために、心の中では、常に葛藤してしまいます。
肉体を持つがゆえの欲求に、負けたりもします。
しかし、それは仕方のないことです。
前提として、人として生きないことには、未熟な部分を知ることも出来ないし、正すことも出来ません。
まず、人間というものが、どういったものであるのかも考えずに、理想ばかり並べていても仕方ありません。
他の人と自分を比較し、つまらないことばかりにこだわっていては、進歩が小さいものです。
たとえば、霊的な自分というものは、車を運転するドライバーのようなものです。
ドライバー自身の質が問題であるのに、一生懸命になって、車をピカピカに磨いても何もならないのです。
人の未熟な部分、それは常に自分自身の心の深い部分にあり、人それぞれに違っています。
だから一概に「人はこう生きなければならない」とは言えないものなのです。
確かに、社会で生きる為には、まわりの人達と協調しなければならず、無視できないこともあります。
でも、まわりの人達ばかりを見てあせっていては、「世の中に流されて、一生終わっちゃった」ということにもなりかねません。
また、いかに努力し、辛く苦しい人生を乗り越え、立派な人であっても、霊魂として解消すべき未熟な部分がそのままであるなら、単に生まれて死んだだけということになります。
そのためには、自分自身の未熟な部分を知る必要があります。
本物の修行の達人は、自分、人間というものを知りつくしています。
どんな精神、心理学の学者でも、太刀打ちできません。
なぜなら人間というものは、霊的な生命体であって、物質学にとどまっていると、その全貌が見えないからです。
死というものを考える
世の中では、死というものについていろいろ語られていますが、 「死」が、どういったものであるかは、実際に自分が死んでみないことにはわかりません。
人間にとって死というものは、必ず訪れるものであり、避けて通れないものです。
それでも人は、なるべくなら死を遠ざけたいものであるし、ほとんどの人は、自分が死ぬことなど考えたくないものです。
ある人にとって、死は壁であるかもしれないし、また自殺を考える人にとっては、安らぎであるのかも知れません。
人の死は、まわりの人にとって、非常に淋しいものです。
いつも一緒にいたのはずの人が、突然いなくなってしまうからです。
どんななぐさめの言葉でも、癒されないほど辛かったりもします。
最近は、特に自殺者が増えているそうですが、家族やまわりの人の気持ちを考えるなら、自分の意思で死を選ぶべきではありません。
病気などであれば、ある意味では「仕方のないことだ」とあきらめがつく部分もありますが、自ら死を選択したとなると、 まわりの人にとっては、「なぜ、もっと理解してあげられかったのか」という無念さが残ってしまいます。
だからといって単純に「自殺は悪いことだ!」と決めつけられるものではありません。
人は何でもすぐに、善悪をつけたがります。
確かに「自殺は悪いことである」という言葉を聞いて、踏みとどまれるようなものであるなら、価値があるかもしれません。
本来、人は生きることが欲求でなければならないはずです。
それでも死を選ぶとするなら、他の人にはわからない苦悩が、そこにあるからです。
そういったことも考えず、「自殺する勇気があるなら、もっと生きられるはず」などと言う人もいます。
別に勇気で死んで行くばかりではないと思います。
戦時中の神風特攻隊なら、それは確かに勇気かもしれません。
他人から見れば些細な原因なのかもしれませんが、人というものはそれぞれ、心の中に秘めているものは違い、 自分の価値観を押し付けるべきではないのです。
生きることが善とするなら、さんざん人を踏みつけて長生きした人に、何の価値があるのでしょうか?
善悪を言うなら、まず人が生きるという事は、どういうことなのかを考えなければなりません。
なるべくなら、自殺してしまう人が少なくなる社会を願いますが、せめて親身になり相談できる人がまわりにいて欲しいし 、自らの価値を、自分で見出せるようにようになって欲しいものです。
死は遅かれ早かれ、必ず訪れてしまいます。
もし人間が、肉体の死後も、別のかたちで生き続けるものであるなら、笑って済まされないほど、人間にとって、とても重大なことではないでしょうか?
世の中に法則というものがあるように、霊的世界にも法則があります。
それは、万人に共通です。
宗教の中で、死後の世界が語られているのは、単に苦しみからの脱出や逃避、死後の世界に望みを託すためにつくられたものではありません。
ぜひとも、多くの人達に、真面目に考えて頂きたい事柄です。
宗教と霊魂学
よく、宗教というものは、教えを説きます。
人の生き方について、愛や平和という言葉で彩られ、善悪を強調し立派な教えばかりです。
確かに人間同士が「争いを起こさないように仲良くしなさい」というような、 それぞれに、いろんな考えを持った人達が、上手く暮らしていくためには 「どうすれば良いのか?」ということを考えることも大切です。
しかし、「日本の常識は、世界の非常識」と言われるように、国によって教育や文化、人々の意識や価値観、考えが異なります。
それらは、時代によってかなり変化してしまいます。
宗教というものが、そういった部分も含めて、教えを説くのであれば、長い歴史のある宗教であるなら、なおさらのこと時代と共に、修正しなければならないことがあるのではないかと思います。
それでも伝統のある宗教というものは、そのまま保つことに、価値があると言います。
社会的なルールを守るのであれば、人がどう生きようと、何を信じようとそれぞれの自由です。
ですから、僕はそういった宗教に、口出しするつもりはありません。
ただ、残念に思えるのは、死後の世界というものがあり、その法則というものが、地上の観念と違っていた場合です。
「他者への善なる行為が、天国へのパスポートである」と信じ、自分の人生の大事な時間を犠牲にしたのに、いざ死んでみたら、皆とあまり変わらなかった。
おまけに、「慈善行為は、死後の世界の徳となります」と教えてあげたのに、その言葉を無視した奴が、上の世界いた。
これでは悔やんでも、悔やみきれません。
やはり、死後の世界を信じるならば、せめて法則を知るべきではないでしょうか?
僕は最近生まれたばかりで、何千年も昔のことは、わからないので偉そうなことは言えませんが、もともと、現代のように教育制度が進んでいる時代はともかく、 学校もなく、人々が宗教というものを通して、いろんなことを学んでいたとすれば、倫理、道徳的なこと教えるのは、むしろ当然と考えられます。
今のように義務教育というものがあっても、「人が生きるためには、どうすれば良いか?」ということは、なかなか教えてくれませんが・・・。
また、社会という枠の中で、法律というようなルールをつくり、人々が守ることにより、生活の安心が得られますが、それには、警察という取り締まる機関があり、それにより、人々が守ることで価値があります。
しかし、しっかりとした法律のようなものもなく、警察官のような人がいないと「誰も見ていなければ、何をしてもいいや!」ということになって、みな好き勝手なことをしてしまいます。
そこで「悪い事をするとバチが当たる、地獄に落ちる」とか「神様がいつも見ている」と言うことにより、自制心を持たせることが出来たのかも知れません。
現代でこんなことを言ったら、笑い飛ばされてしまいますが。
『霊魂学』というものを学んでいくと、確かに、歴史の長い宗教に「なるほど、こういうことを言いたかったのか」とうなずける、霊的に深い意味を持った部分もあります。
それでも、人の生き方や日頃の行いについて、霊的なことを含めて説くことは、非常に難しいことだと感じています。
なぜなら、人というものは、それぞれに持っている霊的に未熟な部分は、違っているからです。
一人一人に、「あなたはこうした方がいいですよ」と言うのならわかりますが、 すべての人に対して「こうしなければいけない!」とは言えるものではないと思っています。
皆が肩を組んで、ニコニコしているだけは、霊魂としての成長が得られるとは限らないのです。
こんなことを言うと「カルト宗教だ!」と思われそうですが、かといって、争いの多い社会が霊的成長をもたらすものでもありません。
宗教というものが、霊的な意味でも価値を持つのは、正しい霊的な事実を伝えるからこそです。
そして、それは人間、霊魂、というものを理解した上で、考えねばならないと思うのです。
『霊魂学』というものは、時代ともに変化することはありません。
それは霊魂というものを通して、人間を語るからです。
人の考え方が時代によって変化しても、地上の法則が一定であるように、霊的な法則を説くのであれば、いつの時代も価値があると言えます。