霊的な成長

霊的な進歩は幽体抜きでは語れない

人が霊的な進歩をするためには、どうすれば良いでしょうか?

その前に知っておかねばならぬ大切なことがある。

霊魂としての人間は、肉の身でありつつも、幽的な霊的身体を内に秘めている。常に人はダブっているがごとし。

そうでないと、今すぐ死んだとすれば、あの世に行く身体がない。

常に生まれてからずっと持ち続けているからこそ、死後すぐに移動できる。

よって幽の体を知ることが大切。

まず人間というものは、肉体とダブっている幽体という霊的身体があるということだね。

そこで、幽の身を知らねばならない。幽の身は肉体の脳にもダブるはず。

そうでないと死後、肉の脳が消滅した時、記憶がすでにない。

脳の細胞が消去したら、何も意識が残るわけでもなし。

が、仮に他界があり、次の世があるなら、必ず幽の脳が一緒に他界している。

幽体にも肉体の脳のような意識をつかさどるものがあって、肉体と連動しているから意識とか記憶が残るっていうわけか!

 霊的な進歩は、人の世ではかなり難しい。

つまり、赤ちゃんが歩いたといって、それは一定の年齢になれば誰でも歩くこと。

それを進化とは言わない。

ただの通常の過程である。

同様に、霊魂として人が進化するとは、普通の変化ではない。

確実な変化でないといけない。

つまり、猿が立つがごとしでないと進化と呼べない。

その進化は、実に幽の身を無視しては語れない。

世の中では幽体という霊的な身体について、あまり語られることがないから、 もっとも身近である「心」というものが人間の本質などと考えてしまい、その心の変化や成長ばかりにこだわっていても、 幽体が進歩、成長しなければ霊的な進歩につながらないってことだね。

「私どもの申すことを信頼なさった方は、幸いかな」というのは、所詮人の身は、この世の目、この世の耳しかついていないから、死後の者を見ることがない。

つまり物質の肉体というものは、次元の違う幽体という存在を見ることも、その声を聞くということもできないんだね。

 見えないで判断出来る範囲は、どこまでも推測にとどまっている。

我ら霊魂が声を大にして主張しても伝わるはずもなく、死の前の者にはなかなか分からぬが必然。

が、仮に死後の世界が無いとしたら、我らは全てまやかしである。

仮に、死後の世界があれば、我らの主張はどうせなら、なるべく沢山の人に伝えたい。

霊魂は肉体がないから、直接人間に何かを伝えるということが難しい。

そこで唯一、人間の側と霊魂双方がトレーニングを積むことにより、霊魂の主張を正確に霊媒を通じて地上に表現できる「霊言」を行うんだね。

霊的に進歩する技術がある

 「人間に対しそんなに言いたいことがある?」

それというのも、人がこの世で幸福になろうとして、もがけばもがくほど、我らから見ると下がるからである。

人々の幸福は、物質を身につけることなので、我らの世界に来ると通用しない。

ということは、いま肉体を持って生活していながらも良くも悪くも霊的に変化してるんだ。

でも、幸福になろうと考えることは、ごく当たり前の心情じゃないかな?

そういった欲求があるからこそ、生き続けることが出来ると思うけど・・・

無論、人は肉の身を維持することを考えなければ生きられないので、 我々は人がごく当たり前に生きながらも、霊的に進化して欲しいと考えるのである。

例えば、水を一杯かぶるとしよう。

それだけで、我らの主張は、かなり多く入る。

水をかぶる瞬間に、我らは、その水により身体がどういう反応を示すか覚えている。

その覚えたことにより、その瞬間、その人の間気を調整し得るのである。

アレク・ソチャ ピクサベイから

 

禊法という霊的なトレーニングの初伝で水を使うよね。

間気とは、中国等でよく「気」と呼ばれるものである。

しかるに、これは間気であってではない。

間気は肉体と幽体の接着であり、幽気は幽体内の気である。

そのために霊魂は、その両者を見うるため複数でかかっている。

この複数の霊魂が、何かしら現象を起こすと、ようやく水をかぶることが霊現象になる。

それがないと、ただ単に水を入れた器をおのれの身体にかけて、シャワーになっている。

人間が霊的な技法を行うと、たくさんの霊魂が協力してくれるんだ。

でも、霊魂が関与しなければ当然霊的な現象とはならないから、「オレは修行している!」なんて一生懸命になって水をかぶっても意味がないね。

つまり水の一杯が実は霊的な進化の根元となる。

その霊魂の間気、もしくは幽気への作用は、確実に幽的な身体を変化させ、オーラを変えている。

これが、我らから見ると、より高貴な気をその人に降ろすための技術になる。

やがて、本人の幽的な質が上がるから、他界後は、いやでも上の世界に行くことになる。

人間にとって霊的に良い影響を起こしうる霊魂の協力を得ることが、とても大切なことなんだ。

霊的修行法には作法があるけど、そのひとつひとつが霊魂との約束ごとになっているんだね。

死後の世界が本当に実在し、霊魂が本当にあるのなら、我らは確実にそれを知り、それを行うのだから、霊的技術があれば、人は誰しも進化できる。

が、知らぬから、人はただの物のみを見て下がっている。

霊的に退歩するとは

パムサイモン ピクサベイから

それじゃぁ、なぜ霊的なことを無視していると下がってしまうのかな~?

簡単に人が今、どうすればあの世で下がるか教えよう!

ひとつ「霊魂を無視すること」これに尽きる。

つまり、霊魂はその人そのものであり、幽体を用いている以上、無視すると絶対に上がって行かない。

それは、肉体の所持者が肉体を無視して暮らしているようなもの。

食事をすべきなのに食事をしない。

休むべきなのに休まない。

体は多少動かすべきなのに動かさない。

これでは肉体は必ず早く滅びる。

これは当たり前のこと。

同様に、幽的身体の霊魂であるおのれが、それを無視して生きれば、下がるに決まっている。

どんな人格者も、脳による性質が、若干寛大だとか、大らかであるとかに過ぎぬのだから、別に霊的にどうというものでもない。

肉体とダブっている幽体があるのに、それでも「霊魂など存在しない!」などと かたくなになっている人には、霊魂は何も出来ないよね。

多少、立派そうに見える人でも、死んじまえば霊的には、あまり変わらないってことか。

霊魂を意識して生きれば、呼吸ひとつをとっても、それを霊的技術の呼吸法として正しく行えば、幽的な身体の栄養となる。

霊的なトレーニングをすれば、霊的でいう、ご飯を食べたことになる。

呼吸法や霊的なトレーニングというものは「自分は霊的な存在である」、 「高貴な霊魂から協力を得たい」そういった気持ちがないと意味がないんだね。

 つまり、霊魂を意識し何かを行うということは、大前提である。

仮に、食品でいえば、よりよい食品と、悪い食品がある。

しかし何も食べなければ、確実に死んでしまう。

体に良くないからといっても、食べないよりは良い。

それを考えるなら、幽的に多少あまり良くないものであっても、何もないよりは実は良い。

つまり、世に沢山いる、だまされたと呼ばれる人たちの方が、何も信じない人よりも、はるかに良い。

何も信じない人達は、だまされもしないが、確実に食品を食べていない。

だまされた人達は悪いものを食べたが、死んでいる訳ではない。

だまされた人達って、けっこう真面目な人が多いよ。

きっと心の中に、目には見えないけれども、物質的ではないものが存在すると考えているからこそ、だまされたりもするんだよね。

それを見て「バカなやつだ!」なんて言う人は、初めからそんなものは存在しないと決め付けているんでしょう。

だまされることもないだろうけど…

つまり、より霊的な方面に意識が向いたのだから、その人の守護もしくは指導の霊魂が、何らかの活動をはじめる。

守護、指導霊というのは、霊的なことに関心を持つその時に、やっと活動することが出来るんだね。

頭から否定している人には、その機会がないってことか。

サムウィリアムズ ピクサベイから

それは、仮におかしげな新宗教に入って、人格が崩壊した場合でも、 無論それは良くないが、意識がそちらに向いた段階で、守護、指導の霊魂を確実に一歩動かしている。

とすれば、毒に当たって死なない限りは、多少お腹をこわす程度なら、やはり知った方が良かった。

ということは、霊的な意味での人の進化は、良くても悪くても、霊魂を知ること。

邪教でボロボロになって、世の中から無茶苦茶に言われても、それを否定する人よりは、まし。

世間の人達は「なんと哀れな人生だ」と思うかもしれないけど、人間が霊的存在であるなら、「霊的なことを知ろうとする、求める」それはごく当たり前の心情なのかも。

つまり、霊魂の身体を持つ以上、どんな言い訳をしても無視したことは全く愚かであり、確実に他界後は下がって行くのである。

世に最悪の宗教といわれてボロボロになった人達も、下がりはするかもしれぬが、無神論者ほどではないに違いない。

それは、良い部分も確実に動いているからである。

まず、霊魂を知ること

見えない、確信のないものを判断しようとしているのだから、間違っても当然かも知れないね。

つまり人は何が正しいかなど、わかるはずがない。

「仏教とキリスト教のどちらが高度なのか?」これをわかるのは、一部の高貴な人だけで、大多数の人は、仏典を全て読めるでなし、聖書の隅から隅まで読める訳ではない。

まず読まずに終わる。

それでもどちらかを判断するしかないのだから、わかる訳がない。


わからなくても人生は確実に動いている以上、本当は何も知らない人より、おかしなおかしな宗教にだまされた人の方が、はるかに霊的であったし、はるかに正しい人生であった。

いずれにしても人は死ぬのだから、そういった人達が実際死んでしまうと、どのような違いがあるの?

何もわからずとも、地上で霊的なものに意識が向いているということは、死後そうした人達は必ず神を求めようとするし、仏を求めようとする。

が、無神論者は、今生きているということを幻としか見ない。

夢の中としか見ない。

あり得ないと考える。

上がるわけがない。

つまり、人がこの世に生まれて、幽体を用いている以上、どう間違っても答えは、ただひとつ。

「霊魂を知れ!」それだけである。

人における救いも、幸福も進化も全て、そこからしか始まらない。

ところが、科学ではそれを解明しない。わかる訳がない。

人は、物理的な目と耳と鼻と口しか使わないのに、それ以外の知覚はなくて普通。

無くて当たり前なら、わからなくて普通。

人というものは、世の中の流れや常識にとらわれてしまうけど・・・

 しかし、あるものはあるし、無いものはない。

キリストとブッタのどちらが良いのか分からない様に、科学的には、やはり永遠に議論して行くだけで何の解決もない。

それでも、人はクリスチャンになったり仏教徒になったりしている。

つまり、人は霊魂であるから、それを直感する以外に道がない。

正しくても間違っていても、己の直感に責任を持って、たとえ己が狂って死んでも、それが正しかったのである。

もし世の中の大多数の人が「霊的なものなど存在しない」って言っても、実際にあれば、少数派が正しいということになるね。

Image by Foundry Co from Pixabay

何もせずに外野から笑うことは誰にも出来よう。

ある野球選手が三振した。皆で笑い者にする。

「あんな最低の選手はいない」と飲み屋でボロボロに言われよう。

「早く首にしろ!」と言われる。

しかし、こと野球なら、野球に関して言えば、どんな三振をするプロも、飲み屋で怒っている一般の人よりはるかに野球はうまい。

間違いなくプロ選手の方がうまいに決まっている。

それを勘違いしてはいけない。

人はあれこれ他人のことを批判したりするのが好きだからね~。

人に多少批判されようとも何をしようと、それで不幸になろうと、外野で笑うことは誰にでも出来る。

何かをすれば、仮に政治であれば、ある政策をとる。

それがうまく行くかどうかは、やってみないことにはわからない。

それなのに失敗すれば袋だたきになる。

しかし、一般の人が総理大臣になれば、もっと悪かったに決まっている。

やらずに外野から見ていれば、何とでも言えようが「お前がやってみろ!」と言いたい。

そんなに立派に出来るかどうか?

誰も出来はしない。

もともと人は完全ではないのだから、失敗や間違いがあって当然だし、結果だけを見て揚げ足を取られたんじゃ~、たまらないよ!

よって、人は何が正しいのかわからぬのが前提である以上、とにかくやっている者の文句を言ってはならない。

それが地獄へのパスポートになろう。

愛を唱えても霊的成長は望めない

Ylanite Koppens from Pixabayから

確かに最近、宗教的な集団による詐欺行為や犯罪などが目立っているし、当然それは悪いことで、批判されても仕方のないことだけど。

例えば、一部の警官が犯罪を犯したからといって、それで警察官はみんな犯罪者であるような見方をしているのと同じだと思うよ。

人間だから悪い人もいれば、真面目な人もいる。

そういった一面的なもので、霊的なことを判断し遠ざけてしまうことは、残念な気がするけど。

例えて言えば、低い霊魂につかれている人がいる。

本当に入られている人もいれば、そうでない人もいよう。

しかし、大多数の人はそれを認めたがらない。

認めないということは、低い霊魂の側から見たとき、つまり、いたずらな霊魂の側から見た時、認めない人の方が絶対に入りやすい。

とにかく、どれたけいたずらをしても、悪さをしても本人が認めない。

「霊魂など存在しないのだから、そんなことは絶対ない」と言う。

これは楽である。

インチキな霊能者の所に行っておかしくなる人も多数いよう。

しかし、絶対に認めない人の側にいて、永遠にイタズラを繰り返しても絶対に捕まることはない。

もし我らが邪悪な霊魂になったら、誰に憑依するか?

決まっている、無論絶対に認めない者の所へ行く。

認める者の所へ行くと、ひとつ間違えば、除霊されるかも知れないし、火あぶりにされるかもしれない。

そんな危険を犯すバカはどこにもいない。

昔は、確かに宗教者にそうした憑依が多かった。

しかし、それは一般に宗教者が多かったからである。

今は、無神論者が多いのだから、霊魂は確実にそちらに行くしかない。

 霊魂がイタズラしやすい人のことは分かったけど、霊的なことに関心を持っても、何が正しくて、何が間違っているのか、なかなかわかないことだよね。

それでも、 霊魂の主張によって高低の見分け方みたいなものはある?

霊的に高い個性は、邪悪なことを言う。

霊的に低い個性は、もっともなお説教をする。

それは、もっともなことを言うと人の心が安定し、落ち着くからである。

落ち着くと人は喜ぶ。

が、我々霊魂はそれを喜ばない。

今どうしても改善して欲しいと思っているのに、安心させてしまったら何にもならない。

ちょっと良くわからないけど、具体的に言うと?

受験でいえば、本人はAという大学へ行きたいが、実力ははるかに低い。

受験が良いか悪いかは別として、仮にどうしてもAへ行きたいのなら、ここで徹底的に変えないと到底無理。

となれば、そこで「A大学は絶対に受かります」というような安心を得てしまったら、「信じていれば必ずA大学に入学できます」と言われてしまったら、その人は絶対に通らない。

もし本当に合格させたければ、徹底的な変革がいる。

徹底的な改善がいる。

それを考えると、まずもって大切なことは、多少ショッキングでも良いから、今までをひっくり返すような発言をする必要がある。

 そうだよな~。人間なんておだてられれば、何の努力もしないからね。

愛は良いに決まっている。

しかし、ただ「愛すれば世界は平和になります」では、今まで2千年、3千年の間、一度も平和は来ていない。

毎年どこかで戦争をしている。

 人は都合の良い時だけ綺麗ごとを言うけど、自分に都合が悪くなれば、黙っちゃうんだ。

 全員宗教者は「愛」を叫んできた。

人々もやはり「愛」を言うが、一度もそれが現実してこない。

つまり、それではダメだから愛はダメという。

必ずしも愛を無視することが良いことじゃないよね!

ペギーとマルコ・ラッハマン・アンケクサベイから

愛がいけない訳ではないが、いつまで、「愛」「愛」と言ってもどうにもならない。

とすると突飛なことを言わねばならい。

人がこっちを振り向くように、まるで逆転したことを言わねばならない。

それが正しい。

いつもと同じなら、何も変わるはずがない。

変革はいつもひっくり返すことを言わねばならない。

それを考えたら、我らが一にも二にも言うのは、「霊的進化を経なければ、人は生きる値打ちもないからどうにでもなれ!」である。

そんなに簡単に見捨てちゃうの?

本当にどうにでもなれと思ったら、我らが人の口を借りて、何かを主張しようとしない。

しかし、そう言わないと誰も目覚めないとき、我らは邪悪とも呼ばれても良いから、本当のことを主張しようとする。

この国はこのままだと霊的にどんどん下がる。

「もっと下がればどうなるか?」

邪霊は山ほど寄ってくる。

そうすれば凶悪犯罪も起きようし、当然災害も多数起きる。

人は死ぬべきして死ぬだけである。

それを阻止するのは唯一霊的進化のみである。

講演会は、対話形式ではありません。

人が物質の身体を持っている以上、盲目状態なのかも知れません。

だから、何が正しいのか、間違っているのか、わからなくて当然といえます。

それでも人は、ひとつひとつ選択し、判断しながら生きて行かなければなりません。

人が霊的生命体であるなら、たとえ霊魂など見えなくても、誰でもかすかな霊的感性、直感を持っているはずです。

それを生かすことが、霊的な進化につながるのだと思います。

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