人生の目的と霊的存在

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人生の目的は、霊魂抜きには語れない

まちゃたま

人間の人生における、霊的な目的とは何でしょうか?

霊魂

 人の一生はひとりひとり異なり、死亡の時期すらばらばらであるが、それは取りも直さず、人々の人生の目的が、まさに、色々な形であることを意味する。

つまり、飢えて仕方がないような国民のひとりとして生まれ、2才にもならぬうちに、飢え死にして行く。

そうした人は、その人生に何の目的があったのか?

その国に生まれれば、1才ともたず、何割も死ぬも、百も承知で産み、生まれ、その目的とは何か?

人が生きる上での目的は、人の考えではあらず、人がいかに頭をひねっても、己が生存していることすらわからない。

まちゃたま

 自分の人生の目的を考えると、よくわからない。

自分にとっての満足じゃないのかな?

人それぞれだけど、やっぱり長生き!

Image by WOKANDAPIX from Pixabay
霊魂

仮に、人が寝ている。

人は夢を見るが、生きているつもりだし、起きているつもりで、活動したと思う。

が、起きてみると、ただ寝ていただけ。

人は肉を持ちうる意識体に過ぎず、生きていると、本人が思っているだけ。

仮に、肉体を捨てて、死んだとする。

本人の意識があれば、生きているつもり。

家族が仮に集まっていたら、死んだと言って泣いている。

間違って肉体が蘇生し、再び活動を始めたとする。

再び意識が戻ったら、人は死んでいたのか、生きていたのか??

人は己が生きているのかすら、正確にわかっているや否や。

まして、肉体の脳で、人が生きる目的などわかるはずがない。

仮に、3才の子供がいる。

この子が「ご飯がほしい、遊びたい」と言って泣く時、その目的は何か?

肉体の保持のみである。

が、生きる目的が、仮に肉体の保持なら、死ねば何の価値もない。

人の個性が死後も存続することがあるなら、人の価値は、肉体の存続のみではない。

つまり、良い暮らしをするのであれ、地位を持つであれ、肉体の欲求に付随した思いは、これすべて肉体あっての話し。

となれば、食欲であれ、性欲であれ、肉体あってのこと。

仮に、人の胃が決して空腹をもたらさないとしたら、今ほど人は、食を求めない。

腹が減るから、人は食べたい。

絶対腹が減らないのなら、「そのうち食べてみよう」で終わってしまう。

よって、人は肉体の欲に伴う欲望は、どれだけ満たされたにせよ、人生の目的を持つほどのことではない。

スポーツ選手や、タレントになり、頂点まで登ったにせよ、だからどうしたである。

まちゃたま

たとえばお金持ちになろうとして一生懸命貯めたとしても、いざ使おうとしたら死んでしまった。

これじゃぁ、むなしいよね。

あの世にはお金を持って行けないの?

霊魂

我々霊魂は、肉体が滅んでも、なおかつ意識は存続し、やがて別の世界には入ると思っている。

そうであるとすれば、人生の目的は、霊魂ぬきには、語れないことになる。

神もしくは死後の世界を無視して、人生に意味はない。

人が、なぜ地上で生きるのか?

霊魂

 仮に、死後の世界があれば、2才で死んだとしても、別に問題はない。

必要があれば、また生まれるやもしれず、物質の世界がすべてなら、2才で死んだ子は、何の価値もない。

まちゃたま

そうだよな~

生きることに価値があるとするなら、好きで死んだわけでもない赤ちゃんは、かわいそうだよ。

霊魂

もしも、人に価値ありとすれば、霊的な生命を無視しては、成り立たない。

つまり、人生とは何かと、悩む時、人は霊魂を知る以外に、救いがないのである。

それを知らずに、いかに頭をひねっても、明日死ぬかもしれないのに、何を悩む。

本当に死後の世界がないなら、高校生がいくら悩んでみても、大学へ行く前に、死んでいるのかもしれない。

30年先の人生設計は、無意味である。

まちゃたま

それは結果論であるけれども、自分がいつ死ぬかわかったとしても、何をやって良いのか、戸惑ってしまう。

残される家族のこととか、友達のことが、気になるな~

人は先々が見えないからこそ、なるべくなら不自由がないようにと貯蓄を考えるし、保険にも入る。

それは、すべて不安だから。

霊魂

つまり、今のこの世が小学校だとした時、人は小学校を出れば、中学に行く。

が、中学校に行くことを知っていれば、小学校で学ぶことの意味がわかる。

中学が絶対ないと思っていたら、小学校でどう生きるかは、全然違ってくる。

つまり中学がないはずなのに、中学へ無理やり行かされれば、ついていけない。

苦しむだけである。

UnsplashRyan Taussが撮影した写真
まちゃたま

 死後の世界が存在するなら、自分は天国に行くのか地獄に行くのか、すごく気になるよ。

霊魂

死後の世界がもしあるとすれば、それを語らずして人生は、一切なにもわからないであろう。

そのうえで霊魂としての己が、なぜ地上で生きるのか?

それを、少しずつ明らかにする。

人が考える死後の世界は、妄想でしかない

霊魂

年をとり、あと2年で死ぬとする。

その人は、何をすべきか?

もう人生は、大半終えてしまっている。

何をすべきか?

答えはただひとつ、「すべてを捨てるべし」己は、すでに肉体をやめる。

肉を止めるのが決まったら、「肉体を持っているからこそ出てくる、あらゆる思考をやめよ」である。

まちゃたま

人は霊魂になるにしたがい、どうなるの?

Image by Christine Engelhardt from Pixabay
霊魂

言うまでもなく、霊魂としての本性を、表現してゆく。

そのため、肉体から、霊的身体へのなだらかな変換がいる。

そのために最も大切なのは、食欲や性欲はあっても良いが、肉体を保持する基本以外の諸々の物的な側面は、外さねばならない。

その意味は、人が生まれた時にさかのぼる。

そして、そのまた深い意味は、地上に人類が、なぜ生まれたかにまでさかのぼる。

死んで間もないある個性が、こういった体験をした。

まず絶対に、この世しかないと思っていたらが、たまたま、あの世があった。

そのために、深い傷を負った。

なぜなら、死後の生命体は、自分を認めぬ者を、認めないからである。

彼らの世界は、はっきりしている。

想念と想念で互いに通じ合う。

地上の言葉は、いらない。

が、レベルが違うと通じない。

よって、より上の存在と通信を保つには、己が必死に相手を認めないと、通じない。

つまり、己より一歩でも先に行った方に、手を引いてもらおうとすれば、己が頭を下げて、手を引いてもらわないことには、話しにならない。

つまり、霊的個性を認めないと、人には救いが来ない。

あらゆる書物の中で、臨死なる体験が言われる。

が、人は正確には、幽界になど行ったなら、戻って来ない。

彼が見ているのは、肉体の脳の延長であるし、我らの言う冥界の入り口である。

つまり、妄想の世界である。

彼らが共通した体験を持つということは、共通した妄想を持つ脳があるからである。

人が行く世界が、同じ訳がない。

アメリカで死んでも、日本で死んでも、同じ幽界になど行く訳がない。

幽界は、もっと遠い。

Image by -MayaQ- from Pixabay
まちゃたま

幽界というのは、死後行く世界でしょう。

臨死体験して、幽界に行って来たって言う人がいるけど、違うんだ!

その前にも、冥界というところがあって、その手前までしか行っていないとすると、肉体をちょっと離れただけじゃないの?

よく守護霊が、迎えに来てくれるって言うよね。

でも、守護霊もひとりの個性であるから、生きている時に交流がないばかりか、守護霊という存在を馬鹿にしていたら「迎えに行ってやるもんか!」ってなるよ。

困った時だけ、助けてくれなんて、やっぱり虫が良すぎるね。

霊魂

つまり、人々の実験から、真実は絶対に得られない。

光の天使など、迎えには来ない。

来るわけもなし。

己が認めないものを、相手もどうコミュニケーションとやらを、取りようがない。

Image by Ri Butov from Pixabay

死後の世界と再生

霊魂

そこで、人、死を迎えたら、霊的になるべし。

食欲、性欲その他もろもろは、やむを得ず。

が、それ以外に関しては、霊魂のみを見るべし。

それは、人が誕生してからのテーマであった。

人がこの世に生まれた唯一の目的は、2千年前にイエスが言ったごとし。

「汝の神を愛せよ」ただそれだけである。

人はそれだけのために生き、それだけのために死ぬ。

それしかない。

人は、大きな心得違いをしている。

2千年も前の古代の言葉など、何の価値があろうか。

が、古代だからこそ、その程度のことしか言えなかったに過ぎない。

古代の人の知的レベルが低いからこそ、その程度の言葉しか表現できなかった。

今なら何と言う。

神イザナギの大神、禊の大神、富士の大神、これがすべてである。

つまり、地上に生まれて生きる目的は、霊魂を語らねば出てこないのは確か。

霊魂を語ると、その延長に神がある。

それを無視して、何を語っても意味がない。

Image by Himsan from Pixabay
まちゃたま

自分の未熟さを思えばこそ、より高い存在に向いていないといけないんだ。

だから、守護霊も霊的な向上を目しているわけだから、地上の人間が神を求めていれば、よろこんで迎えに来てくれるんだ。

霊魂

例えて言えば、人には過去がある。

つまり、何度か人は、生まれ変わっている。

もちろん、人の個性がそのまま生まれるのではないが、〈これは難しいので置いておいて、一部が生まれているが〉、まぁ、とにかく過去世がある。

その時に、仮に大きなテーマを作ったとする。

例えて言えば、大失恋をして自殺した。

そのままあの世に行っても、その傷は忘れているが、霊魂としての進化のマイナスになる。

なぜなら、この世の肉体と肉体を持つ人がいるからこそ、起きた欲望である。

失恋やその他は、あの世の肉体のない世界では、経験できない。

そのためにその部分だけが、心の中にしっかりと残ってしまい、いつまでたっても消化していかない。

向上していかない。

幸いにして地上では、自分たちの子孫が延々生きている。

その子孫として、誰かの子供の中に、その意識の一部が入ってくる。

まちゃたま

 一部が入ってくると言うなら、過去世本人は、幽界に残っているんだね。

生まれ変わりっていうけど、全部が生まれ変わるわけではないんだ。

再生っていうやつだね。

Image by Fujikama from Pixabay

霊的カルマ・因果報応

霊魂

さて、はじめてそこで生まれた新しい生命とされるが、実は過去を持つその子は、地上で仮に、17なら17才になった時、同じような体験に遭遇する。

言うまでもない事ながら、己の肉体が、どんどん大きくなるにしたがい、肉体の脳が、そうした経験をする状態を作っていくから、意識の奥にある失恋して自殺したなら、自殺した心情が、表現し得る状況が生まれてくる。

そしてそれが、はじめて出てくる。

そのとき人は、また同じことを繰り返したら、生まれた意味はない。

それを、カルマという。

が、なぜかまた死んでしまったり、今度はその反動で全く逆のことをしてしまったり、様々な結果を出す。

「その霊的なカルマをどうするのか?」という。

Image by Jessica Hatchell from Pixabay
まちゃたま

 自分では気がつかないけれども、年頃になって同じような状況になってくると、その過去世の心情になってしまい「もう、死んでしまいたい」と考えたりもするんだ。

霊魂

我々霊魂は、それをどうすれば良いのか、知っている。

無論、禊なる秘儀をもっているので、なんとかするが、しかし多くの人達は、そのまま死んでいく。

何度も生まれても、生まれた目的など、一度もない。

つまり、とにかく霊的に進化するには、そうしたカルマを解消しなければならんのに、誰ひとりとして、そんなことを考えていない。

が、昔むかし、インドでクリシュナとか釈迦とか呼ばれた方々は、そうした問題をテーマにしていた。

日本でも、古代から禊があったということは、そうした問題がテーマになっていた。

つまり、人類にはカルマを解消する方法はもたらされていたが、まったく気づかず、数千年過ぎている。

そのうえにそうしたカルマをどう解消するかなど何も考えずに、いきなり、誰か救世主が人を救ってくれるなどと、勘違いしたりもしている。

所詮は、己の力でカルマを抜くしかない。

それには我らで言えば、禊をするしかないのであるが、では、そのカルマが人生のテーマであるかと言うと、必ずしも、それだけではない。

人々の浅知恵は単純に、「良い事をせよ」で終わる。

が、その個性の中の深い心情の中にどうしても、止めろと言われても、これだけは止められない。
あるいはこうしたものを見ると、どうしても手が出る。

そうした深い深い心情が、眠っている場合がある。

簡単には、解消できない。

だから「生まれてこない方が良い人間だ」というイエスの言葉がよーくわかる。

Image by madsmith33 from Pixabay
まちゃたま

たとえば、人を殺したくなるような心情を、もっている人もいるわけでしょう。

その人の心情が爆発してしまうと、殺人を犯してしまう可能性もあるわけだ。

そうなると、また生まれて、多くの人を殺してしまった。

これじゃぁ、やっぱり生まれてこない方が良かったに違いない。

自分だけがおかしくなるならともかく、他人の人生、自由を奪ってしまうことだからね。

霊魂

人生の目的はカルマの解消は当然だが、もうひとつ大事なのは、そのカルマの解消がどうせ無理なら、どうせなら「神のために死ね」である。

それが「汝の神を愛せよ」である。

すべてにおいて、人には限界がある。

いちばん大事なことを忘れて、人は肉体の脳で、議論している。

明日どうなるか見えないのに、明日の対策がどちらが正しいのか議論している。

愚かしい。

絶対に、どちらも正しくはない。

より正しい可能性を探っているのである。

Image by Gerd Altmann from Pixabay

人類の歴史

霊魂

 そこで、人はなぜ生まれて、なぜ死ぬのか?

ある個性は、こう言った。

人々がエデンの園から脱出できた時、人々は生殖する存在になった。

つまり、物質の世に幽質界から下がってきた時、人々は肉の身を着た。

そのために、肉体がなければ、起きない様々な殺戮が起きた。

食品を、食べるためである。

その結果、ありとあらゆる格差が現れ、生活の差、地位と名誉の差が現れた。

スターと、ただの人を生んだ。

それがやがて、激しい殺し合いになる。

そして、何も見えなくなった。

もともとあったはずの神も、霊魂も消えてしまい、いつの間にやら、偽りの神と霊魂ばかりになった。

まちゃたま

現代の人達が神に祈るとすれば、商売繁盛、家内安全、受験合格とかそんのご利益ばかり求める人が多いよ。

小銭払ってさー。

霊魂

人は、「神が人を殺せ」と言うはずがないと、思い込む。

が、神は人を殺したいわけなどない。

なぜなら、人は死ぬのが怖いし、殺されるのはいやだし、望んでもいない。

人に自由があるから、神はそんなことは望まない。

が、どうせ死ぬのなら、安らかに死なせてやりたい。

皆は神に対して、おのれ自身の勝手な欲望を、いつも要求している。

「神は、愛ではければならない」とか「人を救ってくれなければならない」そんな馬鹿なことがあるはずがない。

別々の存在に対して、別々の個性に対して何か願うなら、代償を求めず、である。

それが当たり前なのに、神はなぜ、己の心を理解しないと言っている。

つまり、神は代償など、もちろん求めていないが、代償がなければ、神に祈れない、というような真剣なまなざしを求めている。

病を治してくれというが、治したらすぐ忘れてしまう人間よりも、「自分は好物のこれを断つから、治して欲しい」というなら、治してあげたいと思うのである。

そういう気持ちもまるで持たないのに、私に神は、何もしてくれなかったという。

昔から、神そして霊魂を、正しく求める人間を疎外してみたり、妨害してみたり。

それでは、人が生きる目的は、何も達成できないばかりが、誰ひとりカルマを抜くことも出来ない。

そうなれば延々、何千年地上にいても、人々のカルマは、永遠に軽くはならない。

誰ひとりとして、人殺しのカルマを、脱することが出来ない。

地上の人間は数千年来、ずーっと戦争してきた。

戦争までいかなくても、さんざんに人を踏みつけてきたに違いない。

Image by Angela Bedürftig from Pixabay
まちゃたま

 人間って、今の自分しかわからないから、「法律にも触れてないし、刑務所に入ってない」だから、死後の世界が仮にあったとしも、自分だけは天国に行くと思ってるよ。

霊魂

そういった歴史が、人類にはある。

男も女も、同じ。

女であっても、過去は男だったかも知れないし、その逆もある。

となれば、みんな何かやってきたから地上にいる。

Image by Lothar Dieterich from Pixabay

霊的カルマの解消

霊魂

その罪はなんとか抜かないと、あの世に行っても、向上できないのであるから、そうした技を、なんとか広げなければならないに決まっている。

が、それを妨害しておいて、それでも、なおかつ、なぜ自分は救われないのかといって、文句を言っている。

これでは、まさに、真の神が、もし本当にいれば、「そういった者を、まず最初に、地上から消してしまわないと仕方ありませんね」となってしまう。

それがまずいのなら、せめて、人の妨害をしないことである。

ところが人は、それぞれに自由があるのにもかかわらず、他人の人生に干渉したがる。

何か霊的なことを言えば、また、おかしな宗教が出現し、またおかしな信仰に入っていると言う。

大きな、お世話である。

人がどう生きようと、犯罪を犯すのではなければ、他人にとやかく言われる筋合いは、ある訳がない。

Image by xiSerge from Pixabay
まちゃたま

昔は神を真剣に求めるということは、立派なことだったけど、今じゃぁ、変人扱いだから。

現実からの逃避とか、心が弱いとか、言われてしまう。

まいったよー。

うっかり、霊魂なんて言葉は言えないんだ。

霊魂

邪教に入った信者は、まだましである。

それは、方向が間違っているだけだからである。

教義がやや間違っている、また、その教祖が、間違ったことを言っているというだけのことであって、何も信じず、無視している奴よりいいに決まっている。

我々は、霊的な人生の真の目的を「汝の神を愛せよ」と名づける。

その意味はあまりにも深いが、霊的に成長しなければ、真偽はわからない。

人ひとり、「生まれて死ぬまでに、これだけはせよ」ということを、己の守護霊は、全員知っている。

無論、守護の霊魂クラスでは分からんこともいっぱいあるが、とりあえず、より低い人生のテーマくらいは知っている。

その霊感が降りるように生きれば、死後はとりあえず、下がらない。

講演会は、質問形式ではありません。

まちゃたま

人には、自由意思というものがあります。

霊魂が言ったように、犯罪や社会倫理の範囲であれば、どう生きようと、他人が、とやかく言うことではないと思います。

霊的なことを求めるのも自由であるし、否定するのも、それぞれの自由だと思います。

だから、僕も自分の考えを、押し付けるつもりはありません。

死後の世界がなければ、人間死んだらそれで終わりだし、もし死後の世界があるなら、霊的な法則にしたがって、生きればいいことです。

霊魂学書籍のご紹介
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