霊魂学による霊的カルマ
よく、人に殺されたのは、前世で人を殺したからだとか言う人もいるし、悪い事をするとバチが当たるって言うけど、本当はどうなのでしょう?
我々霊魂から見るカルマとは、必ずしも、世間で言うカルマのごとしではない。
つまり、語源はともかく人々の間に言葉が定着したから、この言葉を使うに過ぎず、出来れば別の言葉を使いたい。
したがって、霊的カルマとして説明する。
カルマは上から見ると読みやすい。
つまり、「あの方は、明日自殺する」これはカルマなり。という時、まず当たる。
それは、カルマが何であるかを知ればすぐわかる。
人に何かをされるということよりも、その人の心情の奥にどのようなものが隠されているか、そういったことの方がわかりやすいんだね。
ある体の不自由な方が、仏の教えに問う。
「今の私は、過去世よりの悪行により、手足が動かせないのでしょうか?」
「己のせいによって、そなたの過去からの罪が、今の障害を生む」
と仏の教えが答える。
次の方は、キリストの教えに問う。
「私は、目が不自由です。これは罪によるものなのでしょうか?」
キリストの教えは答える。
「目は罪にあらず。これは、神を知るためなり」
そこで、我々霊魂が答える。
「カルマとは単に法則であり、罪でもなければ善悪でもない」
つまり、ある障害者の障害の原因は実に罪であるが、別の障害者の障害の原因は罪ではない。
一律には語れないことなんだね。
でも、何で悪い事をすると、バチが当たるって言い始めたのかな?
日々善を行ってくれなければ困るという、昔の仏教の人達にとって、悪い事をしたらバチが当たらないと、教育の低い人達には通用しない。
教育がないほど、悪い事に走りやすい。
そこで、悪い事でも、人が見ていないと皆してしまう。
人が見ていないから、泥棒する。
人が見ていないから、他人の物とわかっていても、盗んでしまう。
そこで仏教は「悪い事をすれば必ず報いがくる」こう強く言いたい。
そこで因果律(いんがりつ)や、業(ごう)とう言葉が出る。
現代の人達も、教育が高いのか低いのかわからないけど、「人に見られてなければいい」って感じの人いるよ。
昔は、それで戒めになったのだけれども、今の人達は、何とも思わないだろうね。
しかし、カルマは事実という観点より見ると、そうした善悪でも罪でもない。
つまり、ある人が後ろから、ある女性の頭を叩いた。
その人は気絶してしまって、誰が叩いたかわからない。
しかし、多分あいつに違いないと、目測をつける。
やがて、その女性は、いずれ恨みを晴らそうとする。
いつか、足を引っ張る。
しかし、実は別の第三者が犯人だった。
満員電車で変な格好して、動けなくなる時があるんだ。
むやみに動こうとすると、チカンと間違われたりする。
ギロってにらみつけらるけど、それがまた、どうでもいいような女の人で…
おっと失礼!
つまり、カルマで言えば、悪い事をした人に報いが来れば良い。
が、何もしないで誤解された人に報いがくる。
良い事をすれば悪い事がないのでもなく、悪い事をしたからいずれ報いがくるというものでもなく、原因に対して法則が作用し、結果が現れるだけ。
その原因に善悪もなければ、罪科でもない。
カルマは善悪でなく、心の奥底の心情
例えば、人殺しであっても、仮に戦争で、某国へ空爆をするかしないかと考える時、ある人は、「すぐに空爆すべきである」と言う。
またある人は「話し合った方が良い」、 別の人は「もっと、もっと話し合ってから後、空爆した方が良い」と言う。
どれが正しいのか。
どれが善でとれが悪であるのか。
皆、意見が分かれる。
しかし、行った結果は必ず出る。
仮に某国に原爆を落とした。
さて、それで死んだ人達は、なぜ落とされたかと言う。
が、落としたのは善か悪かは、なかなかわからない。
もともと善悪というのは、自分たちの狭い生活圏だけのものでしょう。
「これが良くて、これが悪い」というのがその限られた地域、国だけのもの。
きっとそれをまとめて全世界の善悪となると、何が良くて悪いのかわからなくなるよ。
みんな自分達を中心に考えているから…
つまり、カルマは善悪ではない。
原因があって、結果がある。
その結果を見たとき、次の原因ができて、やがて次の結果がわかる。
ある方の心の中に、自殺しなければ仕方がない心情が、潜んでいる時、一か月後でなければ一年後、一年後でなければ十年後、必ず死ぬ。
予言すれば、外れる。
時期は、わからない。
しかし、その人の心の奥底に、それをさせようとする強い強い思いが眠っているなら、必ず死ぬ。
それを我らは、霊的カルマと言う。
それを止めるには、心自体を変えなければならない。
が、心の奥に眠り、普段全く出て来ない所にある。
仮に、明日誰かに善いことをした。
それで己の心の奥が取れるのか?
無論、取れない。
消えもせず、変わりもしない。
必ず死ぬ。
自殺する人達の中には、他人から見ると、どうして、そんなことで死んでしまったのかと、考えさせられることもあるよ。
ということは、過去からの明確な記憶が、よみがえってくるというより、自殺した、あるいは死にたくなってしまった時の気持ち、心情になってしまうのか…
生きていると、どうしても楽しいことばかりじゃないよね。
辛いこともあるし、悲しいこともある。
その普段の生活の中の、ちょっとしたきっかけで、心の奥の心情が浮いてきてしまうんだね。
また、必ず人を殺すとか、必ず3人と結婚して、3回別れる。
そうするように動く心情がある。
それは、赤ん坊にミルクを与えないようなものである。
欲しい、欲しいと泣いている。
しかし、与えない。
次の瞬間必ず、泣くに決まっている。
いくらお説教をしても、子供は泣き止まない。
それと同じ。
自分の過去世を知るということは、とても大切なことだよね。
そうした心情が人生に大きく関わっているんだ。
人を傷つけたい願望や、蹴飛ばしたい願望が、1歳のときにはすでにある。
つまり、3歳の子を見て、将来かならず3回結婚すると読める。
なぜなら、過去を背負っている。
である以上、それは変わらない。
不幸になることが初めからわかっていても、ただなるようになるだけ?
対策はある。
そこでカルマの本質に迫りたい。
霊的カルマの不確定要素
霊的カルマについて具体的に、教えて下さい。
カルマは生まれた段階で、決まっている。
「それなら、生まれなければいいのに…」
しかし、人は欲があるので、必ず生まれ出てしまう。
そこで、どうすべきか?
不幸になるのは決まっている。
そうでなくても、70歳でそのまま死ぬと、たぶん死後低い世界に入るとわかることがある。
なぜなら、仮に過去世なるものがあって、その時、強い強い恨みや呪いをかけた。
さて、今度生まれた。
なぜそれが影響するかは、長くなるので話せない。
しかし、その心情が、テレビを見ていても浮いてくる時がある。
テレビを見るくらいで、心の奥が刺激されちゃうんだ。
浮いてくると、表面に出てくる。
そして、何らかの形で実現されてしまう。
ということは、一度死んでおり、あの世に行っているのに、また生まれてきて、同じことをしている。
仮に百年なら、百年も前の心情を今、再び背負っている。
それでは、あの世でちっとも向上していなかったことになる。
なぜか、それはかなり複雑な問題であり、いま語りようがない。
しかし、事実として見るならば、確実に現実がある。
例えば、車で幼稚園の前を100キロのスピード飛ばして通る。
もう1人のドライバーは、10キロで通る。
どちらが事故を起こすか?
100キロで走っていたら、子供が飛び出してきたら止まれないよ。
多分、100キロで飛ばした方が事故を起こすに違いないと考えるが、事実はわからない。
100キロで飛ばしたが、たまたまそこに子供がいなかったから大丈夫。
10キロで走ったが、子供がいきなり飛び出してきたら、それでも引いてしまう。
つまり、霊的カルマも確定していない。
いつも、不確定な要素がある。
霊的カルマは、心の奥に秘めている心情なのだけれども、いつどのように影響するか、どのように作用するかまでは読み切れないということだね。
そのために、人の運命はなかなかわからない。
「多分こうだ」と言えるが、それがいつなのか、はっきりしない。
それを予言すると、必ず失敗する。
しかし、いつも100キロで幼稚園の前を走っていれば、いつか必ず事故を起こす。
それが、いわば霊的カルマである。
霊的カルマというものは、時期を特定することは難しいんだね。
こういった人は事故の危険性が、常に伴っているということだ。
己の心情の中に、他人を強く呪ったという意識がある。
それが「もっと、もっと呪いたい」という意識があった時。
「将来この人が結婚して、何か些細なことでケンカしても、多分、人には言えぬほど恐ろしい怨念を出すに違いない」
ということがわかると、どんな人と結婚しても、必ず不幸になるに違いないとわかる。
ある人が、ある人を連れてきて、「結婚しました」と言う。
それを聞くと「おめでとうございます」と言うしかないが、我々霊魂から見るとかわいそうにと思う。
その組み合わせを見て、また涙を流して相談に来ると思う。
しかし、その時は笑顔で答える。
それがカルマというもの。
なぜなら、カルマは確定していないので、その時「おめでとう」でも、あとで泣かないで済む時があるからである。
その場合は、心の奥底にある強いそうした心情を和らげる努力である。
心情を和らげる努力、これがさっきのミルクだね。
十人十色というように、人それぞれ持っている霊的カルマは違うんだ。
これじゃぁ、人を一律に語るなんて出来ないよ。
霊的カルマを変えられるか?
霊的カルマを防ぐというか、変える、解消することって出来るの?
例えば、夫婦は仲良くしなさいと説明しても、仲良くできるくらいなら、とっくにしていると思う。
出来ないから困っている。
なぜ出来ないか?
出来ない心情がお互いに内にある。
それを解決しないで、「これこれ、こうしなさい。ああしなしさい」と言っても、やっぱりお互いそっぽを向く。
自分のことを誰かに相談して、アドバイスを受けたとしても、その時は「はい、わかりました」なんて言っても、自分を変えることは難しいからねー。
つまり、どれだけ口でお説教しても、人のカルマは変わることはない。
変わるのは唯一、心の奥自体を変革させることだけである。
5歳の子供であっても、将来どうなるかは、心の内でプログラミングされている。
小さい子供は、あどけなくて無心のように見えるけど、すでに様々な要素を持っているんだ。
それを直さないと、だいたい将来どうなるかわかってしまう。
それを読み取ることが難しいだけであり、変化が難しいだけであるから、それを変える手段もある。
こんなに大事なことなのに、あまり知られていないよね。
それは、宗教の中にあるから、人々のものにはならなかった。
技術として独立していれば、いくらでも人々のものになったかもしれない。
無論、困ったことに、宗教家でない人が、そういった事を教えたことが一回もないため、なかなかうまく行かない。
人間には潜在意識、深層心理のようなものがあるということは、心理学という分野でもわかっているけど、物質を超えてしまっているから、なかなか実体がつかめていないんだ。
医師という職業は、ただ治せばよい。
それが、宗教家だと、そうもいかないので困る。
しかし、遺伝子を組替えれば人間が変わるように、脳のある部分に、ある刺激を与えると、人はある行動をする。
つまり、己があるようで実はない。
ここを刺激すると、この人は怒る。
ここを刺激すると、この人はおとなしくなる。
精神的な病気、うつ病の人とかに効く薬があるらしいけど、ラリっている状態に近いらしいよ。
つまり、薬品や、脳の刺激によって変わる程度の心は、いくら説教しても本質ではない。
よって、そんなものは、人間の魂全体のわずかな部分であって、実は本質ではないから、それでレベルが上がった訳でも、下がった訳でもなく、どんな立派な人も、下の世界に死後落ちると私が、断言できるのは、そこである。
もしも仮に、ニコニコして平和ばかり口にしている人が、みな上に世界に行くのなら、もしも医学が発達して、ある脳の部分にこういった刺激を与える、こういう薬品を飲む、そうすると皆平和を求めるようになる。
「そうしてしまえば良いのに」
そうすれば、世界から戦争が消えるかもしれない。
みんな優雅な、暖かい、穏やかな人間になるかもしれない。
しかし、脳の刺激で変わったのは、魂が変わったわけではないのだから…
つまり、どれだけ努力して立派な人間になっても、霊的な意味での進歩でも、退歩でもないのだから、あの世に行けば、幽体がちょっと傷ついただけで、下がってしまう。
どんな立派な方も、ちょっとしたことで下がったり、上がったりする。
魂の本質は、地上の人々の価値観と全然関係ない。
幽体という霊的身体の状態が、死後、霊魂としての生活に深く関わってくるのだね。
カルマを解決するとは、善人だからいいのでもなく、悪人だから出来ないのでもなく、自動車を100キロだと事故を起こすが、10キロなら大丈夫だという。
ただ、それだけの現実である。
その現実を考えて、己の奥に沈む魂としての自分を、どう変革できるのか。
それだけである。
どんな立派な人が、偉そうに説教しても、その説教で変わりはしない。
皆さんがよく知っての通り、心の中にある怒りとは、一つ、二つ己を正したからといって、消えるものでは絶対にあり得ない。
霊的カルマの解消、救いの法
霊的カルマって、簡単にどうこうできないんだな。
ある人に、わが子を殺された。首を絞めて殺された。
ばらばらにされて殺された。
犯人がわかった。呪わない者がこの世にいるだろうか?
「呪ってはいけません」と説教しても、「はい、わかりました」と言うが、腹の中が、それで平安になる訳がない。
ケンカして、頭にカァーっと血が上っている時、誰かに「ケンカするのは良くないよ!」なんて言われても、急にニッコリ笑って、おさまるもんじゃないよね。
これが、カルマと呼ばれるものであり、本質的なものであり、そう簡単に変わる訳もなし。
それを超え得る人など誰もいない。
よって世のなか皆、いわゆる善人になってもカルマは消えない。
永遠に人は不幸に陥る。
だから善人ほど、不幸になる。
悪い人ほど長生きする。
つまり、善い人でも、悪い人でもカルマは関係ない。
人は、本能があり欲望があるから、絶対に平和になど暮らさない。
仮に、平和になったとしても、皆が幸福になどなれない。
みんな個性があるから、人と違う服を着たいのだし、人と違うものが食べたい。
人と違う歌が、聞きたい。
となれば、必ずそこに差が生まれる。
そして、不幸が出来るに決まっている。
どんな平和になっても、個人はいつも不幸のままである。
人間ってどうしても、他人と比べてしまうよね。
皆より下だと辛いし不幸だと感じてしまう。
できれば、人より上になりたいと思ってしまうけど。
人の容姿や、服装、スタイルはみんな同じではつまらない。
差がありたい。
しかし、差があれば必ず誰かがひがむ。
誰かが、必ず泣く。
誰かが必ず辛い思いをし、上のほうにいる人達は、恨まれる。
その念は、その人をまた痛めてしまう。
そこで、真の救いはただひとつ。
カルマの解消であり、それは、日本の古事記に記されていた。
それが禊という技法である。
現代の人が、霊的カルマっていうものが良くわからないのに、すでに大昔から、その解消法がすでにあったってこと?
水とか風とかあらゆる物を用いて、人々の幽体の中に、あるエネルギーを通す。
そのエネルギーが通ると、例えていえば、脳を刺激すると人の心が変わるのだから、幽体も刺激してしまえば、幽的な心情も変化するのである。
つまり、魂全体の変化が唯一、幽体の変化以外にあり得ない。
また、幽的心情をも変化しないと、あり得ない。
そのためには、幽的、霊的な力、これに気づけるかどうかなのである。
これに気づいた時、人は本当の意味でカルマを越え、本当の意味で救いを得る。
それに気づかなければ、どれだけもっともらしいお説教を聞いても、絶対に救われない。
霊言講演は、対話形式ではありません。
人の人生は、必ずしも決まってはいない様です。
しかし、人には過去世というものがあり、その記憶は、心よりもっと深い部分に刻み込まれています。
それが、今の人生に影響をもたらします。
この霊的カルマを抜きにして、人の人生を語ることはできません。
それなのに「霊的カルマ」、その解消法について、世の中では話題にならないということを考えると、人の人生は決まっている、と言えなくもありません。